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第3話
俺はその日、会社帰りに寄り道をした。
その場所は高層ビル群が立ち並ぶオフィス街で、帰宅時間と重なった歩道には男女問わずスーツが溢れていた。
自信に満ち溢れ、微塵の疲れも見せない人たちの中で、不安と恐怖に慄きながら立ち止まる俺は酷く滑稽に見えた。
壮登が勤務する商社の近くまで来て、急に足がすくんだ。
歩道に沿って植えられたプラタナスの木陰で何度も呼吸を整える。
通り過ぎていく人は誰も俺のことなど見ていない。
(マズイな……)
上着のポケットから取り出したピルケースからタブレットを一錠取り出すと、それを口に放り込む。
Ωは発情期が近くなると、自然と体からフェロモンを発しαを惹きつける。
それは結婚してからも変わることのない体質で、発情期以外は抑制剤を常に携帯し、飲むようにしている。
法は整備されているものの、壮登以外のαに強引に襲われる可能性も考えられなくはない。
特にラッシュ時の電車や駅などは細心の注意を払い、あえて時間をずらすようにしている。
体の中にわだかまった熱が即効性の薬のおかげですぅっと引いていくのが分かる。
ホッと息を吐いて顔をあげた時、有名ブランドのテナントが入った商業ビルの入り口から出て来た壮登を見つけ、慌てて木の陰に隠れた。
にこやかに笑いながら話す彼の隣には見知らぬ男性がいた。
その彼もまた壮登に親し気に笑いかけ、時には体を寄せたりしている。
身長は俺よりも少し高いくらいか……。
長身の壮登とのバランスは完璧で、容姿も決して悪くはない。
むしろ守ってあげたくなるような愛らしいタイプだ。
心臓が早鐘を打つ。拳をぐっと胸元に押し当てて、先程とは違う体の熱を全身に感じていた。
(彼が――浮気相手?)
決定的な現場を押さえたわけではないが、この時間に自分の勤務するビルではなく商業ビルから出て来た事が不思議で仕方がない。
取引先の顧客という可能性もあるが、公衆の面前で体を寄せ合うことなどまずないだろう。
「嘘だ……。嘘だ」
ここのところの睡眠不足が見せた白昼夢――そう自分に言い聞かせてみるが、脳ミソは納得してはくれない。
こんな場所に来なければよかった。彼を疑わなければ、何も知らないままでいられたかもしれない。
俺はふらつく足取りで歩き出した。肩や腕にぶつかる通行人に何度も「すみません」と謝りながら流れに逆らっていく。
彼が帰宅する前にマンションに戻ろう。そして何事もなったように「おかえり」と迎えよう。
最寄り駅のコンコースを抜け、足早に電車に乗り込む。
(落ち着け……)
手摺に掴まる手がじっとりと汗ばみ、荒い呼吸が治まらない。
淀んだ電車内の生温かい空気も気持ちが悪い。
こみ上げる吐き気、発散できない熱が体を焼き尽くしていく。
精神的な打撃――これほどの物とは思わなかった。
今までの悩みなど、まるで比較にならない。
「怖い……」
俺の中にジワリと広がっていくどす黒い恐怖。それは不妊のプレッシャー。
こんな精神状態では、また彼の子種を体が受け付けてくれない。
今度こそは……。妊娠、しなきゃ……。
焦りばかりが募る一方で、なぜか壮登の子供を身籠ることに疑問を覚えている自分もいる。
俺以外の男に産んでもらえばいいじゃないか。そう――あの彼に。
彼の子を身籠りたいと心から願う天使の俺、他の男と交わって壮登の子だと偽りながら仮初の幸福に身を置けばいいという悪魔の俺。
どこをどう歩いてきたのかも覚えていない。そこはもうマンションの前だった。
エントランスで住人だけに与えられた暗証番号をタッチパネルに入力する。
目の前で自動ドアが開き、柔らかい香りが鼻腔をくすぐる。
その瞬間、俺はすっと背筋を伸ばしてエレベーターに乗り込んだ。セキュリティ強化のため、あちこちに設置された監視カメラにこんな情けない姿を晒すわけにいかないと、壮登の伴侶としての自覚が無意識に動いた。
とにかく、この体の熱を何とかしたい。
俺は部屋にたどり着くなり、着ていたスーツをその場に脱ぎ捨てるとバスルームへと向かった。
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