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日誌・11 傷の脅迫
言い置き秀 は当たり前のように、そっと雪虎の背を押す。
促されるまま、雪虎は歩き出した。
「はいよ」
顔なじみの刑事が、ひらり、手を振る。
秀の、あまりに自然な行動に、数歩従った後、
「いや」
雪虎は我に返った。
「待ってください、会長。俺は」
もう、疑いは晴れているはずだ。
月杜家に預かられる必要はない。だいたい、あの屋敷には行きたくなかった。
雪虎の抵抗を予測していたように、秀は低く一言。
「美鶴みつるの一件以来だね」
とたん。
抵抗の意思が、瞬時に萎む。雪虎の胸の中心が、氷みたいに冷えた。
美鶴。
雪虎の妹。
どうしても、真っ先に思い出してしまうのは。
笑顔、などではなく。
秋。冬も深まろうという季節。
曾祖父からの時代の、八坂家の家屋は古い。
その、薄暗く、乾いた空気の中。
二階の部屋。
夕暮れ時。
天井から、人形みたいにぶら下がる、人影。
雪虎は咄嗟に、大きく息を吐きだした。
嫌な記憶ごと。
震えていた。
息も。
肩も。
思う間にも、足は自然と秀に従って動き、狭い通路に出ている。
…幸か不幸か、もう、幸恵たちの姿は見えない。
雪虎は顎を引いて俯いた。無意識に、深く息を吐きだす。
名を聞いただけで、受けた衝撃は、…ひどく殴られたかのように強い。
今。
秀は、雪虎に及ぼす変化を理解した上で、美鶴のことを口にした。
何食わぬ顔で。
雪虎を黙らせるために。
躊躇いの一つもなかった。
…昔より、程度がひどくなっている。
力なく、雪虎は心の中で舌打ち。
―――――こういう、男なのだ。
「では、旦那さま。わたしは、駐車場から表へ車を回してまいります」
「頼む」
頭を下げた黒瀬が、通路の逆方向へ歩いていく。
(平静なもんだ)
暗い目で、雪虎はその背を一瞥。
今、主が何をしたか理解しているくせに、見て見ぬふりだ。いつものごとく。
流れをこのまま、秀に持って行かれたくはない。
無理に、雪虎は口を開いた。
「…会長は、どうして警察に」
この、五・六年、秀と雪虎はろくに顔を合わせてもいなかった。
秀と会うのが、妹の一件以来、となるのは、仕方がない。
あの件が、一応の終息を迎えるのと同時に、雪虎は親と縁を切っている。
三年前、秀の奥方が他界した際の葬儀にも出席しなかった。
それをきっかけに、八坂とも月杜つきもりとも縁が切れたと思ったのに。
互いの近況は、噂で聞く程度で。まさか、警察で顔を合わせるとは予測もしていない。
まさかわざわざ雪虎のことを聞いて、迎えに来たわけではあるまい。
そんなことを考えた自分を腹の中で笑った矢先、
「水川から連絡があった」
淡々と、秀。
水川。
それは、幼馴染、御子柴さやかの旧姓。
なぜさやかの名が、と思ったが。
そう言えば、遅れるかもしれない、と会社の上役には事情を簡単に電話で伝えた。
おそらくは彼から、さやかに連絡が行ったのだろう。
「トラが警察で拘束されているから、解放してやってくれと」
確かに、さやかが来るより、秀が動いた方がコトは早く済む。としても。
秀を寄越すより、放っておいてほしかった、と言うのが雪虎の本音だ。
しかも。
(…ふうん?)
秀とさやかは、互いにそういう私的な連絡が取り合える状態だということか。
一瞬、どういうつながりだ、と勘繰ったが。(この辺りが、雪虎の自覚する、自身の下種 加減なのだが)
おそらくは、個人的なつながりと言うより、月杜と御子柴、家同士の付き合いがおそらくあるのだろう。
…いや、待て。
さやかから、聞いていたならどうして。
「さきほど会長は、俺に対して、なぜここにいるのか、と聞いた気がするのですが」
事情を知っていたのに、なぜわざわざ尋ねたのか。
秀は微かに首を傾げ、ああ、と頷いた。
「なぜ『まだ』ここにいるのか、と聞いたつもりだった」
…昔から、言葉が足りない。一言いいたくなったが、ぐっとこらえる。
理解したなら、言うべき言葉は一つだ。
「わざわざ、お迎え、ありがとうございます」
頭を抱えたい気持ちで、それでも一応、礼は言った。
正直なところ、気持ちの余裕はゴリゴリ削れている。
たった二つ年上の男に迎えに来てもらう三十間近の男…どうだ、情けないだろう。
「水川から雪虎に休みを今日一日やるように言われている。これから、ウチで休んでいくといい」
雪虎の様子を一瞥、おそらく秀は彼の煩悶を察したはずだ。
と言うのに、特に何を口にすることもなく、さっさと秀は次の話に移った。対して、
「いえ、俺はアパートに戻ります」
雪虎は即座に辞退。
心で冗談じゃねえと叫びながら、表向きは、ありがたい話ですが、と申し訳程度に言葉を付け足し、
「管理人さんが心配なので」
即座に辞退した雪虎に、秀は表情を変えないまま、言葉を続ける。
「私は、トラを月杜で預かる、と言ったね」
覚えているかな、もしくは、聞いていたかな、と念押しする態度で。
だが彼はおそらく、返事を望んでいない。
雪虎も、表情を変えない。ただ、黙った。これは。
間違いない。秀が、我を押し通すときの状態だ。
そうは言っても、雪虎とて、これは譲れない。
なにより、月杜家に足を踏み入れたくはなかった。なんと言えば、切り抜けられるか。
思うなり。
通路の向こう側から、―――――ボヤ騒ぎを起こしたストーカー男が警官に連れられて現れた。
特に暴れる様子はない。おとなしく、警官に従っている。
手錠はしていたが、従順だからか、付き添っている警官の注意が薄い気がした。
この狭い通路ですれ違わなければならないようなのは、気が重い。
とはいえ、仕方がなかった。
雪虎はすっと身を捌き、秀を壁側へやり、自身をその隣に配置。
互いに道を譲るように動き、雪虎は何食わぬ顔で秀を庇う位置に立った。同時に。
相手と、目が合う。
刹那。
雪虎は、直感した。
―――――こいつ、タイミングを計ってる。
思うと同時に。
ごく自然に、相手の手の中で、刃物が閃いた。
ただ、凶器が何か。
すぐには、視認できない。
咄嗟に腕を上げる。
腕より、腹を刺される方が危険だ。同時に。
後ろから、身体を引き寄せられた。
予想外のことに、秀はバランスを崩す。
「な、」
にを、と秀を責める声で最後まで言い切る前に。
いつの間にか、背後から伸びた秀の手が、雪虎の腹の前で、拳を作っているのが見えた。
その手のうちに握りこまれているのは。
―――――折り畳みナイフ。
切っ先で掌を傷つけたのか、秀の手から、赤い雫が一滴、落ちた。
とたん、ストーカー男の形相が、にわかに変化。
「邪魔するな!」
ナイフから手を放し、怒りに満ちた表情で、雪虎ごと秀を罵倒。
「コイツさえいなきゃ、ぼくは彼女と一緒に死ねたのに!!」
「おい、何してるっ!?」
遅れて気付いた警官が、雪虎たちへ再度、身体ごと突進してこようとした相手を慌てて取り押さえた。
我に返った雪虎が、
「この、バカ!」
秀のケガをした方の手首を掴み、持ち上げた拍子に、秀の手からナイフが落ちる。
軽い響きが、床から聴こえた。
このようなナイフでも、全身の体重を乗せた刺突が腹に来れば、危うい結果にもつながるだろう。
無論、雪虎は自身の手を犠牲にして腹だけは庇うつもりでいたが。
幸い、秀の掌は、擦り傷程度で収まっている。
雪虎は、心から安堵した。
強張っていた背中から、知らず、力が抜ける。
秀の肩口にある雪虎の頭が、安堵に小さく俯いた。
雪虎の背後から自分のケガを見下ろし、秀はぽつりと呟く。
「…なんだ、この程度か」
乾いた口調に、刹那、雪虎の肝が冷える。
一瞬、何がそんなにぞっとしたのか、自身の感覚の正体が知れなかったが。
違和感が膨らむのは、すぐだった。
…待て。
秀の言い方は、何か、おかしい。
『予測と違った』。そう、言いたげだ。
予測。
…まさか、秀は、この状況を、読んで、いた?
心は、結果にばかり狼狽えてしまうが―――――冷静に考えれば、この状況、おかしくはないだろうか。
今、警察に取り押さえられ、口汚くこちらを罵ってくる男。
彼は、警察に捕まったとき、身体検査は受けなかったのだろうか? その時点で、もし凶器など手にしていれば、取り上げられていたはず。
なぜ、ナイフなど持っていた?
そして、すれ違うタイミングのよさ。
―――――見ようによっては、お膳立てされた状況、のようにも感じられる。
お膳立て。誰が。
「訴えるつもりはないよ」
「申し訳ありませんが、それでも聴取にはお時間を頂きたく」
「…分かった、私は残ろう。だが、トラは先に帰すよ」
「ですが」
「既に彼は長時間拘束されている。休ませたい」
「…分かりました」
気付けば、面目ない、と苦渋の表情を作る警官と、秀との間で、話ができていた。
確かに、署内で起きた傷害事件ともなれば、大ごとだろう。
押し黙った雪虎の肩を叩き、秀は。
「トラは、黒瀬と先に帰りたまえ」
この場合、月杜家へ、ということだ。
「…会長、俺は」
呑めず、前を睨んだまま言い淀んだ雪虎に、
「トラ」
秀は傷ついた掌を見せつけた。―――――雪虎を守ってついた傷。
雪虎の口が閉じる。いや、閉じるよう、仕向けられた。
優しげに、問答無用で。
「いいね」
いつもだ。
秀と関われば、気付けば逃げ道は先回りしてコンクリートで塗り固められている。
真っ直ぐ、秀が用意した道を進むしか、手段は残されていない。
この、状況も。
どこまで秀の思惑が絡んでいるのだろう。
だが。
雪虎から見て、そうまでして、秀が雪虎と関わり合いを持ちたがる理由など、ないのも事実。
秀は、ただの被害者かもしれないのだ。
(…考えすぎか?)
正直、分からなかった。秀が、ここにいる理由が。
雪虎は鋭く舌打ち。踵を返す。
すぐ、秀の声が追ってくる。
「トラ」
「…分かりました」
なんにしろ、ここで押し問答を続けるのも、利口ではない。
張り続けたい我を仕方なく引っ込め、
「黒瀬と先に戻ります」
雪虎は、秀に従うことを選択した。
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