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日誌・13 「俺と逃げる?」
「それでは、雪虎さん」
黒瀬はわざわざ車の扉を開け、雪虎に声をかけた。
「話は通してあります。本日は、離れの方でお休みください」
開けてくれるのを待って、当然のように受け入れた自分に内心愕然としていた雪虎は、素直に頷いてしまう。
月杜ではこれが普通で、自然とそのようにふるまってしまうのだ。
黒瀬は深く腰を折って、再び車に乗ってどこかへ行ってしまった。おそらくは、警察署へとんぼ返りしたのだろう。
歴史を感じさせるおおきな門構えを見上げ、雪虎は眩し気に目を細めた。
足を向けたのは、開け放たれた門ではなく、すぐ隣の小さな勝手口だ。
小さな頃はよく出入りしていた月杜邸である。
勝手知ったる庭先を、雪虎は黒瀬に言われたとおり、離れへ向かう。
(よりによって離れか…)
内心、渋面になる。雪虎が、月杜邸の中で、一番行きたくないところだ。
それでも、疲労と眠気は、誤魔化しようがない。身体は休息を欲している。
とにかく、休みが必要だ。
離れは、屋敷からはずいぶんと離れた場所にある。
移動の最中にアパートの管理人さんに電話を入れ、幸恵にはメッセージを入れた。
飛び石を伝って歩けば、やがて、こじんまりとした平屋が見えてくる。
雑草などは抜かれ、きちんと整えられた庭先に、池があった。春先の今日、波も立っていない穏やかな水面が太陽の光を反射している。
昔から変わらないしずかな光景に、雪虎はしばし足を止めた。
あの、池の傍らで。
秀しゅうの亡き妻―――――結城茜が、結婚の日も迫ったある朝、思いつめた顔で雪虎に言った。
「トラくん、わたしね。…好きな人がいるのよ」
知っている、秀だろう、と…言えたら、どれだけ楽だったか。
彼女の弟、即ち、同年代の尚嗣とは一緒にいることが多かった雪虎は、茜がずっと誰を見ていたのか、ちゃんと気付いていた。そして、それが。
…決して、叶わない、叶えてはならない想いであることも。
茜の言う好きな人、とは秀のことではなく。
思考を振り切るように、雪虎は、ぼそりと尋ねた。
「そんな話を、なんで、今、俺に?」
雪虎が、茜の好きな相手が誰か、察していることに、茜は気付いていたはずだ。
第一、尚嗣とはよく喧嘩をして、茜をよく困らせていた、出来の悪い年下の幼馴染など、相談相手には向かない。
茜としても、解決してほしくて言ったわけではないだろう。ならば、なぜ。
―――――この時、雪虎は、何かを試されたのだろうか。
「わからないなら、いいのよ」
優しげに、茜は笑って。
「気の毒よね、秀さんも…わたしも」
気の毒。秀が。茜が。…結婚相手に愛されないから? 結婚相手を、愛せないから?
秀と茜は、家同士のつながりのための婚約者だった。子供の頃から、ずっと。
そして、二人の間にあったのは、男女の愛情ではなく。友情に似た尊敬だった。
ただ、疑問がひとつある。秀に、女に惚れるなんて感情が、あるのだろうか。
家のためと言われたら、彼には何でもしそうなところがあった。
…こういう考えは、秀に、冷たいだろうか。
「…茜さん」
こんな話をいきなりするなんて、茜は逃げたいのかと雪虎は思った。結婚から。
だから、言った。
「俺と逃げる?」
できっこないと承知の上で、それでも試してみないか、と。
命懸けの悪企みに誘う心地で、雪虎はその時、茜に手を差し出した。
安心してほしい。冒険に離れているから、数日くらいは自由の身でいさせてあげる、と。
真面目な態度で。
茜は一度、びっくりした顔で、雪虎の手を見て。顔を見上げ。
次いで、泣き出しそうな顔で、笑った。
「ありがとう」
礼を言いながらも、茜は雪虎の手を取らなかった。ただ。
微笑んで、くれたから。
彼女の微笑に、…何も知らない雪虎は、愚かにも、ホッとしたり、したけれど。
もしかすると。
雪虎はこの時、茜の気持ちを楽にしたというより。
逃げようと誘うことで、逃げ道を塞いだのかもしれない。
彼女の背中を、押してしまったのだろうか。
忌々しい気分で頭を振って、歩き出す。離れの引き戸に手をかければ、鍵は開いていた。
中に入ると。
―――――いつでも住めるように、きれいに掃除が行き届き、整えられていた。
磨き抜かれた床板はあめ色に輝き、中央に設置された小さなバーには酒瓶が整然と並んでいる。出入り口近くに設置されたキッチン、奥の、ソファ一式。本棚。
窓からふんだんに差し込む光は、穏やかに平和で、眠気を誘う。
座れば、すぐ寝てしまうだろう。
まともに勝負をすれば、眠気が勝つ。落ちそうになる瞼を宥めながら、雪虎は奥のドアノブを捻った。
記憶が確かなら、ここがバスルームのはず。
幸い、昔と間取りは変わっていなかった。
寝ぼけ眼で、シャワーでちゃんと湯が出ることを確認。
壁に設置されたボタンを押す。これで自然と適量まで湯がたまるはずだ。バスタブを湯で埋める最中、とっとと服を脱ぎ捨てる。
疲れている中でも習慣通りにざぶざぶかけ湯。
一息ついて、ようやく雪虎はバスタブに沈んだ。湯のぬくもりが身体にしみて、すぐにも寝入りそうで危険である。
だからこそ、逆に。
先ほどから、記憶の隅をつつきまわして止まらない嫌な記憶に、意識を向けた。
ここまで疲れていると、感情すら気力をなくしたようで、もう、どんなことを思い出しても平坦な気分は変わらないのだが。
これなら、心地よいまどろみに負けずに済む。…いつもなら、喜んで負けるのだが。
そうだ、この離れで、なのだ。
雪虎が、秀にまたがり、彼の『男』を咥え込んだのは。
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