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日誌・15 ちぐはぐ
月杜邸の離れで、秀と向き合った日は。
夏の盛り。そう。
秋口の騒動から、季節は巡り、夏が来ていた。
ようやく就職活動をはじめた雪虎は、この後は面接の申し込みの電話でもしようかと余所事を考え始めていたところだ。
そこへ、その言葉は横殴りに飛び込んできた。
秀の口が閉ざされる。
腰を浮かした格好で、雪虎は固まった。
秀の表情は、いつも通り。気まずげな様子もない。威風堂々。旧家の主に相応しい態度だ。
聞き違いかな。
今聞いた限りでは、目の前に座る眉目秀麗な男はこう言ったような気がする。
―――――たたないのだ、と。
…まずは確認だ。雪虎はぎこちなく尋ねた。
「たたないって、計画が立たないとか、家が建たないとか、…そういう…?」
めぐりの悪い頭を必死に巡らせ、雪虎は言葉を紡いだが。
首を横に振った秀は、きっぱり言い切った。
「子作りができない」
雪虎の身体から力が抜ける。座り込んだ。ソファに逆戻りだ。
よく分かった。
たたない―――――つまりは、アレのことか。
そんなこと、なぜ雪虎に話すのか。恨めしい気分になった。
気まずすぎる。
知り合いの性生活になど首を突っ込みたくはない。しかも、相手は、子供の頃からの知り合いだ。居たたまれない。
秀の顔が見られなかった。かと言って、視線を下げるのも気まずい。
妥協案で、秀の胸元に、視線を固定。
言いにくい気持ちが張り付く喉に、必死で声を通した。
「いや、けど…中学の時は、勃ってた、でしょう」
それこそ、これは、雪虎が、怒りに任せて秀を押し倒した時の話だ。
言いにくいどころか。まるで罪の告白だ。
かつて。
雪虎と言う少年は。
妬みが強く。
怒りが強く。
かつ、それらの感情に、簡単に乗っ取られた。
脆い容器に、煮えたぎった溶岩が常に煮立っているような。
容器が壊れたら、それで終わり。周囲を容赦なく巻き込んで、破滅に突き進む。
当時、生徒会長だった秀は、今よりずっと線が細く。
一見、少女のようで。
中学一年生の雪虎と比べても、中学三年生の秀の方が小柄だった。
彼は、高校生になっていきなり伸びたタイプだ。
それでも、中身は今と同じ。…とくれば。
無茶苦茶をやっていた雪虎を、その日も平気で窘めた。
当たり前のことを言って。ごく、普通に。
たった、それだけで。
雪虎の感情は爆発した。
気付けば、秀を、雪虎は力任せに床へ引き倒していた。
―――――もともと、限界までため込んでいたのだ。
いっさいが雪虎より優れていた秀への妬みを。
比較される怒りを。
それは、欲望、と言うよりも。
―――――ただ、相手を屈服させたい。そんな、理由で。
思い出すたび、ひどく息苦しくなる。
半日もの拘束の後、ようやく解放された秀は、
―――――これで、満足か。
他人事のように言った。
無茶苦茶にされているのに、まったく、けがれていない態度で。
それで、雪虎は芯まで理解した。
秀にとって、雪虎のすることなど。
一筋の傷にだって、ならないのだ。
惨めだった。
ひたすら。
空しかった。
秀は、今―――――その時と同じような、他人事然とした態度で、告げる。
「あのとき以前も以後も、私のモノがあのような状態になったことはない」
つまり、勃起したことは雪虎の前以外では、一度もないということだ。
…あるのだろうか、そんなことが。
男性器の勃起など、排泄と同じレベルの話で、ごく自然な生理現象ではないのだろうか。
昨今、スキップができないとか、正座ができないとか言う子供がいるそうだが、それとはまた別の問題のはずだ。
第一、それが事実なら。
これほどの男が、一度も誰も抱いたことがないことになる。
雪虎は遠い目になった。確信。
ないだろう。
茜なら、真相を知っているだろうが。
彼女の顔を思い出し、内心、首を横に振る。
聞けるものではない。
だが万が一、事実なら。つい、難しい顔になる。
(俺の、せい、…とか?)
まさかな、と自嘲。秀にとって、雪虎がそこまで重い存在のはずがない。
彼の行為が、秀に傷を残すなんて、…そんなふうには、自惚れられない。
仮に。
そう、仮に、だ。
事実なら。
これは、真性か? だったら、病院に行け、としか言いようがないが。
雪虎は知っている。
かつて秀は、行為の最中、―――――反応した。
いっとき、目が据わる。
嘘か本当か、もう一度、試すのが手っ取り早いが。
雪虎は信じきれない気持ちを隠さず、胡乱な態度で尋ねた。
「他人の裸を見ても? …あー、男女関係なくって前提で」
「裸は裸だろう」
赤色は赤色、という態度で秀は断言。動揺も情緒もへったくれない。
それが逆に、雪虎にとっては救いだった。言いにくさが、少しは減る。
この際だ、とばかりに聞きにくい言葉を重ねた。
「エロ本見ても、セックスの動画見ても、―――――映画、小説、漫画、なんでもいい、巷に溢れ返った刺激物は、どんな興奮も会長にもたらさなかったんですか?」
言いながら、途中で思う。
そんなもの、秀が目にするものか。周囲が、まず、止める。だが。
「ああ、皆が遠慮がちにすすめてきたあれらか」
勧めたのか。周りが。
雪虎は絶句。
とはいえ、確かに皆、心配になるだろう。
秀の身体の状態が、自己申告通りだと信じれば。
とはいえ、いくら秀でも、そういった自身の状態は、身内の信頼できる相手にしか話していないだろうが。
「それはそういうもの、としか判断できなかった。刺激となるのか、ああいうものが」
普通の顔をしているが、まったく理解していないことは理解できた。
話していると、分かる。何かが、ちぐはぐだ。
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