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日誌・20 噛み痕

そして、現在。 季節は、春。いや、初夏と言っていい頃合いか。 風呂上がりの雪虎は、浴衣姿で、その光景を見るなりしばし思考を止めた。 雪虎の目に映っているのは、奥のソファ。 ―――――当時のものと総入れ替えされている。 …居たたまれない。猛烈に。しかし、大いに納得。 (だよな!) 当時、思い切り汚してしまったのだ。 そこで何が起こったのか。…どう足掻いても、誤魔化しようはなかったはず。 乱暴、とは違うが、秀との激しい性交の結果、気絶するように意識を飛ばした雪虎は、その惨状の掃除すらしていない。 付け加えれば、生まれついての王様である秀が、やったわけがなかった。 片付けたのが誰かは知らないが…おそらくは、見て見ぬふり・聞いて聞かぬふり・知って知らぬふりができる、有能な月杜家の使用人だろうが、申し訳ない話だ。 そして、他のどこでもない、月杜邸に設置されたソファである。金額を考えると、遠い目になった。 結局のところ、何も知らないふりをするのが一番なのである。 傷だらけになった雪虎の心はさておき。 もう、ソファさえ入れ替わったのだ。 いまさら、変に意識するのもおかしい。 雪虎は開き直った。 ずかずかと離れの室内を横切る。どっかとソファに腰掛けた。 脱衣所にあった浴衣を身に着けた雪虎は、大きく息を吐き出した。ようやく落ち着けそうだ。背もたれにもたれかかる。そのまま、目を閉じた。 あのあと、秀と茜がどうなったか。 詳しい顛末など聞けたものではないが、とにかく、見事、茜は懐妊した。 あの茜が、結婚した以上、秀以外の子を孕むわけがないから、…うまくいったのだろう。 何をどうしたかは知らない。 ある日、お腹の大きな茜に、市外の、知り合いの目が届かないカフェへ呼び出され、上機嫌に言われたことがある。 ―――――この子ができたのは、トラくんのおかげよ。 茶菓子を口にしていた雪虎は、あんこをのどに詰まらせそうになった。 大体、その台詞自体、奇っ怪極まる。 口にするのもみっともない心地になるが、要するに雪虎は茜の旦那を寝取ったわけだ。 それも真剣に思い悩んだ挙句しでかしたと言うより、その場のノリで。…ノリで、だ。 手を伸ばしたのは秀が先だが、応じて愉しんだのは雪虎なのだから、言い訳のしようもない。 正直、雪虎は茜に合わせる顔などなかったのだが、逃げる方が卑怯な気がして、呼び出されるまま、渋々落ち合ったのだ。 なのに茜ときたら。 全部知った上で正気で顔を合わせ、礼を言い、感謝さえ口にした。 ―――――おかげで、夫婦互いに無事お役目を果たせた、と。 許されている、とは思えないが、…いいや、違う。 雪虎と茜とでは、気にするところが、何もかも違ったのだ。 そういう、話だろう。 茜にとって、唯一不安だったのは、子を愛せるかどうか、だったようだが。 既にもう愛しくてならないのだ、と母親の顔で茜は笑った。 聞き流すのが最上の選択だったに違いない。 ところが、そうまでして我が子を得ながら。 身体が元から弱かった茜は、出産することで、命を燃やし尽くしたように見える。 一人息子の成長に、可愛い可愛いと頬を緩めながら、日々弱っていき―――――あっという間に儚くなった。 両親と絶縁し、月杜家とも縁を切った心持ちでいる雪虎は、彼女の葬式にさえ出ていない。 当然、墓参りにも行っていなかった。 思うなり。 泥のような疲労感に、眠りにおちようとしていた意識が、突然浮上する。 (そうだ、墓参り) それは、心の中の、大きな引っ掛かりの一つだった。 今日、せっかく、月杜邸に足を踏み入れたのだ。 これを機会に顔を出さねば。思うなり、決意が眠気を掻い潜る。 どうにか、意志の力で目を開ける。とたん。 「…起きたか」 ソファの背から覗き込む男と目が合った。 慌てて跳ね起きる。振り返りながら相手の名を呼んだ。 「会長っ?」 そこにいたのは、月杜秀だ。 いつ戻ったのか。いや、いつここへ入ってきたのか。 今の今まで気づかなかった。 つまり、少しの間、雪虎は完全に寝入ってしまっていたのだろう。 「食事を運ばせる」 秀の方には、雪虎の戸惑いに頓着した様子もない。いつもの調子で淡々と告げる。当たり前のように雪虎の面倒を見ようとする態度だ。 なぜ、いつもこうなのか。 面倒な遠縁の男など捨て置いてくれて構わないのに。 雪虎にとっては、秀は至極やりにくい相手だ。 腹は減っているが、手間をかけさせたくはなかった。 というか雪虎は、秀と言う男の記憶から本当は消え去りたいのだ。構わないでほしい。 ゆえについ、強く言ってしまう。 「…いらない」 せめて、拗ねた子供の言い分に聴こえていなければいいと思いながら立ち上がる。 「少し眠ったら、帰ります」 茜の墓参りをしてから、と心の中で付け加えた。 「…帰る?」 ほんの少し、疑問の混じった秀の声に、雪虎の気分が微かにささくれ立った。 雪虎に帰る場所などないと言いたいのか。 だとしても、それは月杜家でもない。 睨むように見上げれば。 ―――――じっと、秀が雪虎を凝視しているのに気づいた。正確には。 雪虎の、首筋を。 ソファを、間に挟んで―――――秀は、不動だ。なのに。 雪虎は、内心舌打ち。 知らず、半歩後退してしまっていたからだ。足が、背後の低いテーブルに当たって気づく。 気圧された、わけではない、と…言いたいが。 焼けつくような視線に、つい首筋をこすった時。 ピリ、と小さな痛みが走った。わずかに顔をしかめる。何か怪我でもしたろうか。思うなり。 (あ) ―――――頭の中を、数時間前の記憶が過った。そうだ。 確か、…噛まれなかったろうか。 死神に。 (まさか、痕が、残って) 秀は、それについては何も言わない。表情も、変わらない。ただ。 目、だけが。

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