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日誌・21 変に寂しい
思わず浴衣の襟を持ち上げる雪虎。
ただ、鏡を覗き込んだわけでもないのだ。しっかり隠せたかもわからない。それこそ、幼い仕草だったろう。
なんにせよ、自身の抜け具合にげんなりしながら、雪虎は踵を返した。
「寝室、お借りします」
断りを入れることができただけでも上出来。なのに。
「トラ」
呼び止める、秀の声。
あと数歩進めば、寝室のドアの前だ。無視して、行ってしまうこともできた。
なにせ、秀が雪虎を追うことなどないだろうし。
…だからこそ、と言うべきか。
雪虎は足を止めた。だが、秀に言葉を続ける様子はない。背を向けたまま、面倒な気分を投げつける気分で、荒く息を吐く。
「…なんです」
雪虎は仕方なく、言葉の続きを促した。
なんにしたって、秀は昔から。
外から見える雪虎の言動だけで雪虎のすべてを判断しようとしない、数少ない人間だ。
正直鬱陶しい時が多いが、雪虎がどういうつもりでそうしたのか、といつも聞く姿勢から入る。
嗜めたり叱ったりは当然するが、きちんと公平な判断をしてくれた。
それが、あるから。
雪虎は秀を、無視しきれない。
「もし」
秀が言葉を続けた。
だが、妙な意地が働いて、雪虎は振り向けない。
だから、知らなかった。…秀がどんな目で雪虎を見ているのか。
「お前のその、…妙な体質を治す方法があると言えば、どうするかね?」
秀の口調は、いつもと同じ。なんのブレもない、実直な雰囲気の。
ほんのわずかな惑いすらない語調に、そして、言葉の内容に、―――――しかし雪虎は驚くより先に眉をひそめた。
秀が言った、体質とは。即ち。
初見の相手には、雪虎がひどく醜く見えてしまう、あの、妙な現象のこと、だろうが。
―――――アレを、治せる?
(―――――なんだ?)
真っ先に、雪虎が感じたのは違和感だ。
らしくない。
もし、本当にそんな方法があって、秀が、真実、知っているのだとすれば。
彼は、言わない。
雪虎にも、他の誰にも何も告げずに、ただ、実行するだろう。
こんな、試すような言い方は、しない。
十代の雪虎なら、そう言われたら一も二もなく飛びついたはずだ。
だが、今の雪虎は三十路手前の男である。秀の言葉には、違和感が先立つ。
それでも秀は、わざわざ尋ねた。告げた。雪虎に対して。
ならば彼は、少なくとも、雪虎の体質に関する何かを知っている、と言うことだ。
「どうするか、ですか」
何をどう、言うべきか。
考えながら、雪虎は遊ぶように言葉を紡いだ。
気のせいだろうか。今、主導権は、雪虎にある気がしたからだ。
ただ、わずかばかりの不快がある。
秀の、問いかけで。
長年の疑問が、いくらか解けたからだ。
今まで。
雪虎がどれほど邪険にしても、ひどい目にあわせても、中身のない困らせるためのワガママを言っても。
秀は雪虎を無視したり、邪魔扱いしたことはない。
マメに構い続けた。
雪虎が口にしたどんなわがままも叶えようとした。
雪虎がそれを、単に便利だと思える人間なら、良かった。
残念ながら、真逆の人間だった雪虎は、成長するにしたがって、秀に対して下手な言葉は言えなくなる。
だから余計、雪虎は秀から距離を置くような行動を取るようになったのだが。
その、理由は、…ともすると。
雪虎の、この体質のせいではないのか。
―――――つまり。
雪虎に対する秀の、特別扱いめいた親切の理由は、雪虎個人に対するものではなく。
雪虎の、この体質に対するものなのだ。
思うなり、雪虎は腹立たしくなった。
秀が雪虎個人を見ていたわけではないことに対して、自分が落胆している事実に。
嬉しかったのか。雪虎は。秀の親切が。…苦手な男の、好意が?
正気に戻れ、と雪虎は唇を噛んだ。
そうだ、冷静に考えろ。
秀が特別扱いするのは、この、厄介としか思えない雪虎の体質。
で、あるならば、コレは。
(月杜家に深く関わるモノ、ってことか)
間違いない。秀が動く理由はいつだって、『月杜のため』だ。
雪虎は、表面上冷静に、ドアの方を向いたまま、肩を竦める。
「どうもしませんよ」
ならば、聞くだけ無駄だ。
月杜の何かに関わることなら、秀は決して口を割らない。
旧家に秘密は多く、下手な干渉は命に関わる。
そもそも、この秀と言う男。
真っ当に見えるが、同世代の中でも、ある意味、一番性質が悪かった。
雪虎の中学時代。
彼を含め、周囲がひどく荒れていたのは、いつか語った通りだ。
ただし、厳格に学生たちの秘密は彼らの手で守り抜かれた。不思議なことに、誰一人、その輪から外れることなく。
その、野生の動物を手荒くしつけるような徹底したやり口で、彼らが自然とそうするような空気と言うか素地を作ったのが。
―――――月杜秀。この男だ。
子供の頃から、自然と他者を従え、巧妙に命令通りに行動させる、…薄ら寒い怖さを持っていた。
傍から見ていると、まるで彼の口から放たれる言葉は、強制的な力を持っているのではないかと思わせるほどで。
まさかな、と弱く首を横に振って、雪虎は告げる。
「この年まで、コレでやって来てるんです。いまさら、変わるほうが疲れる」
そう、雪虎はもう、現状に慣れてしまっていた。
それがどんなひどい状況だろうと、慣れた状況が変わってしまうことの方が、この年になるとキツい。
これは、諦めよりもっとひどい後ろ向きな考え方かもしれないが。
「そうか」
淡々と秀は頷き、…ぼそり、続けた。
「―――――飼い慣らされたね」
この体質に?
さすがに、カチンときた。
そんなわけがない。
消し去ることができないのなら、順応する以外に方法がなかっただけだ。
「あのですね」
振り向く。
秀は、喧嘩を売っているのだろうか?
そんな雰囲気は、全くないから、本音が読みにくい。
「さっきから一体、なに…」
言いさし、雪虎は固まった。思わぬほど近くに、秀がいたから。
面食らい、目を瞠る雪虎。彼を見下ろし、
「…私には都合がいい」
理解できないことを、秀は言って、―――――身を屈めた。刹那。
「―――――痛ぇ!」
いきなり、秀は雪虎に噛みつく。
さきほど雪虎が襟で隠したのとは逆方向の首筋に、だ。
思い切り、歯を立てられる。思わず、突き飛ばすようにして離れた。
拘束はされていなかったから、すぐ、二人の間に距離が開く。
なんなんだ、と喚きたい気分を、雪虎はぐっと飲み込んだ。
これ以上一緒にいては危険な気がしたからだ。
秀は、一見、平静。…平静、だが。
この状態で、平然と他人を噛んだのだ。
やらかす。
絶対。
また。
逃げるが、勝ちだ。
「もう、寝ます。おやすみ」
投げつけるように挨拶。
寝室のドアに手をかけ。
いっとき、止まる。振り向かず、ぼそりと一言。
「怪我。月杜の屋敷でも、ちゃんと、みてもらってください」
警察署で、雪虎を庇った手には、包帯が巻かれている。こればかりは、気にするなと言う方が無理だ。
それだけを言い残し、雪虎はさっさと寝室の中へ逃げ込む。
後ろ手にドアを閉め、ベッドの中へ飛び込んだ。
と言うか、倒れ込む。
もう、限界だった。
意識を失う寸前、一瞬、ドアの向こうを意識する。
入って、来るだろうか。
思うなり、自分が嫌になった。
そんなわけがない。秀は、誰も追わない。今までも。
…これからも。
確信を持って、…変に寂しくなってしまった、直後。
―――――すべての物思いが、眠りの中へ沈んだ。
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