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日誌・28 たらしこむように
無茶を仕掛け、雪虎を怒らせたのは、彼らの方だ。報いは徹底的に受けてもらう。
(もう決めた)
雪虎は傲然と微笑んだ。
どれだけ許しを請われても。
誰に慈悲を求められても。
こうと決めた雪虎は決して揺らがない。
その意志の強さのせいで、昔からこういった場面では、雪虎は場の支配者になる。
激しいまでの容赦なさに、誰も彼に逆らえなくなるのだ。
大河は表面上冷静に、息を吐く。深く、―――――…深く。
でなければ、危うかった。頭を垂れて、従いたい欲求に、自身の目的を踏み倒されそうだ。なにせその方が、きっと楽だし、心地いいだろう。
ふと横目にすれば、当の被害者たちさえ、うっかり流されそうになっている。
とはいえ。
「承知の上で、お願いします」
傅きたい誘惑を振り払うように、頭を振る。真顔になって、一歩、雪虎に近づいた。
「代わりに」
その耳元で囁く。わざと、―――――強請るように、甘く。
「僕を玩具にしてください」
他の誰にも聞こえなかったろう、その言葉を放つなり。
大河は自分で魔法にかかったように、瞬時、眩暈に襲われた。
雪虎へ、もたれかかりそうになる寸前。
危うく堪え、大河は洗練された動きで雪虎から身を離す。
「ふん」
雪虎は、一瞬、気に食わない、と言いたげに、顔をしかめて。次いで。
気を取り直した態度で、大河を見直した。刹那。
たらしこむように微笑んだ。
「そういや、しばらくぶりか」
片手を伸ばし、人差し指の背で、大河の頬を刷毛で刷くように、す、と撫でる。雪虎の視線を避けるように、大河は目を横へ流した。
だが、内心、腰が抜けそうになるほど安堵する。
雪虎の興が乗ったことに。
気が向かなければ、本当に、それまでだった。雪虎は、口にしたことを実行に移してのけたろう。
そうなれば、いくら大河でも止めようがなかったし、さらに悪いことには、止める気も起きない。
「その交換条件に乗ろう。ただし」
雪虎は大河の横を通り過ぎる。ドアへ向かった。続いた言葉は、
「俺の気が済むまで付き合ってもらう」
恫喝の響きを帯びている。ただ、それが。
妙に、大河の腹の奥を疼かせた。
無論、雪虎のことだ、今言った以上の条件を、大河からもぎ取るに違いない。
今回は、雪虎自身の話でなく、雪虎の身内に関する問題で、彼はここに来たのだ。
雪虎の求めは、個人の満足や代償ではなく、身内全体に関する保障だろう。
つまりこれから大河と雪虎の間で行われるのは、―――――交渉だ。
しかもとびきり淫靡な。
おとなしく決定を待っていた浩介が、軽い態度で片手を挙げる。
「御曹司さんのことだ、後始末の部下を連れてきてるんだろうが、―――――見届け役としておれは残ります」
前半は大河に、後半は雪虎に向かって、当たり前のように彼は提案した。
雪虎が何か言うより先に、さらに続ける。
「代わりに」
ちら、と二人に背を向けている大河を見遣る。
「先輩には、徹底的な教育をお願いできればと」
つまりは、色々ともぎ取って来てくれ、ということだ。軽い口調ながら、おそらく平時において、容赦なさでは浩介の方が雪虎より上だ。
雪虎は何か言いたげに足を止め、
「…分かった。なら」
自分のスマホを浩介に手渡す。
「預ける。コレで、俺たちのお姫さんと連絡取れ。アイツの指示に従うといい―――――悪いな」
お姫さん、と言うのは、昔から、雪虎がさやかを言うのに使っていた言葉だ。浩介が頷くのを見て、雪虎は今度こそ部屋を後にする。
「おい! 好き放題やっといて、このままで済ませるはずが」
雪虎の姿が視界から消えて、呪縛が解けたか、九条が喚き出すのに、大河が口を開いた。
「なにか」
静かに。
ひどくしずかに、声が挟まれた。大河の声は、どこまでも丁寧だ。
にもかかわらず、含まれた、問答無用と告げる強さに、九条が喉をひきつらせた。
「勘違いをしているようですが」
向けられた目の冷徹さに、浩介が腕を掴んでいたままの女が、腰でも抜けたか、その場にへたり込む。
なまじ、秀麗な顔立ちな分、威圧の意思がこもれば、怖いくらいの迫力があった。
「僕は君を助けに来たわけではありません」
それは、同じ人間に対する眼差しではなかった。道具に対するもの、と言った方がまだ近い。
「利用するために来たのです。…良かったですね」
芯が、氷のように冷え切っているのが分かるのに、表面はどこまでも温かな笑みで、大河は晴れやかに告げた。
「利用できる程度の価値があって」
ただ、挑発、と取るには、あまりに―――――威圧が尋常でない。九条はひたすら縮み上がっている。
もう用はないとばかりに、大河は踵を返した。見守る浩介に微笑み、
「では、部下を入れます。あとは頼みました」
顔見知りで能力も既に承知の間柄である大河は、迷うことなく後を浩介に頼み、出ていく。
とたん、
「も、もうおれは家に戻る! きさま、そこを退け!!」
元気を取り戻した九条は、色をなくした女に見向きもせず、浩介に喚き散らした。
まるで子供だ。
内心呆れながら、浩介は困ったような笑みを浮かべる。
「ま、良かったじゃないか」
話しかけながら、九条の方は見ずに、預かったスマホに目を落とした。
「命だけは残って」
この状況で、全部取ろうなんて贅沢は諦めた方がいい。
言外に言いながら。
浩介は恭しく預かったスマホの角に口づけし。
ドアから入ってくるスーツ姿の男たちに道を譲りながら、さやかの番号をコールした。
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