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日誌・29 狂うほどに

立場も住んでいる場所も違う雪虎と大河が、いつ知り合ったか。 それは、大学生の時だ。 きっかけは、さやか。彼女と大河が、学年は違うが、同じ大学だったのだ。 双方とも、その容姿から何かと周囲の注目を浴びていた。 よって、知り合う前から、互いの存在は知っていた。やたら目立つ存在がいるな、と。 ただ。 大河は常に取り巻きに囲まれ、新しい人間関係を築くことが難しかった。 さやかはさやかで、クールな才女として名高く、近寄りがたい高嶺の花として、周囲から遠巻きにされていた。 お互い、普通に学生生活を過ごしていれば、接触することもなかったろう。 このような舞台の上。 一度目のきっかけは、大河が大学一年の時の、夏のある日。 ふ、と大河は、渡り廊下から大学の敷地内にある木立の下を見遣った。 そこで。 さやかが、木陰にあるベンチに腰掛け、単行本を広げているのが見えた。 少し顔色が悪いように見えたが、平然とした表情で汗一つかいていない。 相変わらず隙のない女性だな、と遠巻きに見遣り、大河は一つの授業に出席した。 その後、また渡り廊下を通って、戻るとき。 さやかはまだそこにいた。 授業に出る前と同じ姿勢・同じ表情で。 なんとなはなしに、大河は少し信じられない気持ちで察した。 ―――――もしかして、動けない、とか。 偶然、そのときは大河も一人で。 遠慮しながら近寄り、迎えを呼びましょうか、と声をかけたのは単なる気紛れだった。 さやかは表情も変えず、大河を一瞥。 才女と呼ばれるにふさわしい、氷の眼差しで。 勘違いだったかな、と大河が思う程度には間を置いて。 さやかは、当然のように腕を伸ばしてきた。 いらない親切よ、けど、優しくしてくれるつもりがあるなら、手を貸して、と。 つん、とすまし顔で。媚びもせず。当たり前のように。 その態度が新鮮で、大河は悪い気もせず、同意した。 とたん、さやかは躊躇いもせず、大河の腕に手をかけ、支えに使った。 迎えを呼ぶだけのつもりが、いつの間にか門へ同行することになっている。 苦笑する大河の隣で、彼の腕を取ったさやかはスマホを開き、どこかへ連絡を入れた。 そのときがはじめてだ。さやかの「トラちゃん」のことを知ったのは。 いや、噂でなら聞いていた。さやかには兄がいると。 ―――――蓋を開けてみれば、兄でなく幼馴染だったわけだが。 雪虎相手に、才女であるはずのさやかが理不尽な文句を当たり前のように口にして、子供じみた態度で甘える姿を見れば、当初しばらくの間、実の兄妹と勘違いしたのも仕方がない。 二人が門につくと同時に。雪虎もそこに到着した。 雪虎の第一印象と言えば。 帽子をかぶった陰気そうな男、だ。 だが、その顔を見るなり。 大河は咄嗟に顔を背けていた。ぞっとするほどの醜悪さに、血の気が引いた。 …それは、一瞬、大河にひどい混乱をもたらした。 なにせ、どれだけ醜いからと言っても、大河が反射で顔を背けることなど―――――あり得ない話だったからだ。 理由は。 御子柴の人間が、他者からの愛情に、決して苦労しないという点にある。 そういった家系、と言うべきか。 彼らは、存在するだけで無性に、周囲の者の中にある愛を掻き立てるのだ。 中でも大河は、将来を約束されたその生まれゆえか、物質にも、愛情にも飢えたことがない。 当たり前のように誰からも愛された。 むしろ、愛情など当たり前にあるもので、飽きてさえいたかもしれない。これが最低だという自覚はある。 ひとつ、彼が飢えているとしたら。 ―――――愛される必要などない、ただ、愛したい。愛したい。 愛したい。 思春期の頃は、狂うほどに、そう願った。 結局、その頃に、彼の願いが叶うことはなかったけれど。 そして、教養をはじめ、勉強や運動に苦労することなく、何不自由なく、育った。 そんな彼が得た気質の一つとして。 底抜けの寛容さがある。 それがもたらすものの一つ―――――弊害と言うべきか、どうかは分からないが、何かを見た時、顔を背けたり、見惚れたり、と言うことは、なくなってしまった。 美醜の判断はつく。だがそこに、感情は付随しないのだ。 にもかかわらず。 大河は、雪虎を見るなり、顔を背けた。 ―――――いったい、彼は何だろう。 呆然とする間にも、トラちゃん、と甘えを含んだ声を上げたさやかが彼に駆け寄った。 勢いのまま抱き着く、意外な姿に我に返った大河は、怖いもの見たさで思い切って視線を返した。と。 唖然となる。 雪虎の顔立ちは、不遜で粗削りながら、男前に見えた。 なるほど、切れ味鋭い美貌を持つさやかの兄と言われても不思議はない。 この時の、どうなっているのかとキツネにつままれた心地になった記憶は、まだ新しい。 構内では大人びたさやかが、めそめそ泣きだし、身体が痛い辛いおんぶ、とせがむのを聞いて驚いたのもよく覚えていた。 …どうやら、月のモノだったらしい。 そんな流れでさやかと知り合い、会えば挨拶を交わす仲になった頃。 学内の一部で薬物が流行った。 外国では合法のモノでもあり、使った者にとってはファッション感覚だったのかもしれない。それだけならば、関わり合いにならず、大河も過ごしたのだが。 その薬物に関わった人間が、消え始めた。通常なら気付かないほど、巧妙な手口で。 手腕もさることながら、人選が一番優れていただろう。 たとえ『消えた』としても誰も探さないような相手を選び、連れ去った。 その先で、彼らがどうなったかまでは分からない。 ―――――何もなければ。 いくら気付いたとしても危険すぎて大河は近寄りもしなかっただろう。 ただ、関わらなければならない理由が、大河側にあった。 攫った人間を、日本から連れ出す際に使われたのが―――――御子柴の船だったのだ。 誰がどんな商売をしているかまでは探り出すつもりはないが、御子柴の船が動いた以上、グループ内の人間がかかわった可能性は高かった。 それをあぶりだす必要が、大河にはあったのだ。 探って行けば、その薬物を使って、定期的にパーティが開催される豪邸の持ち主が構内にいることが判明した。要するに、乱交パーティだ。 その相手と、さやかが知り合いと言うことまで調べた大河は、彼女に仲介を頼み、結果。 薬物の針を拒むことができず、無抵抗のままパーティの最中にソファへ転がる羽目になった。 虎穴に入らずんば虎子を得ず。 情報を得るためにはまず、信頼を得ることが重要だった。 そのためには、取引に使われる商品に興味があるとにおわせる方が一番手っ取り早い。 それに、雑だが目算はしていた。 ある程度の危険はあっても、大河が攫われることはない。なにせ、彼の背後には御子柴がいる。 巨大な組織に周辺を嗅ぎ回られるのは、首謀者とて望まないところだろう。 後遺症が心配だったが、そこはもう、御子柴の医師団に期待するほかない。 要するに、利口に見えてもまだ若かった大河は、捨て身で突っ込んだわけだ。 薬物で箍の外れた、甲高く騒がしい声が周囲に満ちている。 ガンガンと痛む頭を抑えることもできず、四肢を投げ出した大河に何を思ったか、誰かが笑い声を弾かせた。 「来いよ、これから王子さまのストリップショーだ!」 王子さま。 大河を冗談半分に、そう言う学生がいることは知っていた。 他人事のように聞きながら、朦朧とする意識の中、服に手をかけられる。

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