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日誌・30 コレは俺がもらう

シャツのボタンを外され、ベルトを引き抜かれた。 何をされているかさえも、この時の大河には理解できなかった。 ただ、にわかに。 ―――――ぞっと、大河の全身が総毛立つ。 気持ち悪い、気持ち悪い、きもちわるい。 大河の眉間にしわが寄った。 …既に語った通り、ほんの年端もいかない頃から、大河は周囲から好意を寄せられてきた。老若男女問わずだ。 そう言えば聞こえはいいかもしれない。 だが、それらは温かな愛情と言うよりも、自分勝手な執着と言った方が近いものだった。 たとえば、一つの例として。 小学生にもならない頃、世話をしてくれていた女性の一人から、何度も繰り返しこう言われたことがある。 ―――――わたしの知る坊ちゃんは、そんなことなさいません。 幾度もそう告げて、彼女の思うとおりに行動しなければ、解放してくれなかった。 数日、彼女の家に監禁され、彼女の妄想の型にはめられ、生活することを余儀なくされたことすらある。 幸い、親が助け出してくれたが、大河に寄せられる『愛』とは、驚くほど一方的なものが多かった。しかも、過剰に。 御子柴の家系は、そういったものの対象になりやすいそうだ。まるで呪いだ。 それゆえか。 大河は、愛と言うものの、正しい形が何か、未だによく分からない。 なにせ、与えられたものは、砂糖と毒を混ぜて作られた怪物めいたシロモノばかり。 反動か、愛したいと言う強い衝動は、日増しに強くなるものの、手足の動かし方が分からないようなもので、なにをどうすればいいのかすら、大河には見えないのだ。 成長してからは、大河の上に跨る、と言う直接的な方法で迫ってくる相手も多くなった。 大人になるにつれ、それらを利用する方法も覚えたが―――――生理的な気持ち悪さが消えるわけではない。 結果。 好き勝手に、知らない相手から触れられる、現状に置いて。 動けないまま、大河は胸がムカムカしてきた。嘔吐感が増してくる。仰向けのまま吐けば窒息するかな、と他人事のように考えた時。 「―――――何をしている?」 荒っぽさはないが、低い声が冷たく場に割り込んだ。 (ドア、側から?) カーテンの閉め切られた室内に、誰かが入ってきた。大河が感じるなり。 しん。 一瞬にして、痛いくらいの沈黙が、室内に落ちた。 皆、薬物でおかしくなっているはずなのに、調教された獣のように静かになっている。 常軌を逸した事態に、どんな化け物が来たのかと、大河の不安が膨れ上がった時。 「…―――――あ、トラさ、ん…」 場を支配していたらしい男の声が、一気に陽気さを失い、気まずげに小さく呟いた。 トラ。 その呼び名には聞き覚えがあった、大河は。 内心、驚いた。 まさか。 八坂雪虎? 彼が、こんなバカげたことに、関わっている? にわかには信じられない。 そう、これが。 大河が、雪虎と出会う、二度目の機会。 いや、今までも、顔を合わせることはあった。 だが、大河は雪虎に、気付けば嫌悪も露に顔を背けられることが多かったため、話す機会もなかったのだ。 嫌われているのは、態度で分かったが、理由は知らない。 トラ、の呼びかけに、大河はどうにか、視線をそちらへ向けようとする。 だが、思うように動けず、できたことと言えば、小さく息を吐くことだけ。 「いつもの、あ、…遊びだよ。コイツだってここにいる以上、」 「ああ?」 場の扇動者が言い訳めいて声で言いさすのを、雪虎の恫喝めいた声が遮った。それが、大河の思わぬほど近くで聴こえたと思うなり、 「バカ言うんじゃない。ソイツに手ぇ出すのは高くつく」 大河の身体を浮遊感が襲った。 決して軽くはないその身体を、誰かに持ち上げられたのだと遅れて理解したが、まだ頭がろくに回らず、それに対してなんらかの感想を持つこともできない。 「別ので遊べ。コレは俺がもらう」 ただ、近くで聴こえた声が、雪虎のものであることは、間違いなかった。 「ずるくない?」 玩具を取り上げられる気配に、不貞腐れた声が返る。対して、 「お前」 力が抜けきった大河を軽々と抱き上げながら、雪虎が、ふ、と身を屈めたのが分かった。 相手が座っていたのだろう、低い位置で、雪虎が面白がるように囁く。 「破滅する覚悟はあるのか」 相手からの返事はなかった。雪虎は満足そうに喉の奥で笑い、 「じゃあな。あとは好きにしな」 雪虎が許すなり。 ―――――ど、っと激しいほど場が湧いた。 寸前のことなどなかったかのように、狂乱の渦がいっきに広がる。雪虎の腕の中、大河は耳が痛み、つい呻いた。 気にも留めず、雪虎は移動。 ドアがしめられる気配を最後に、狂乱の気配が遠ざかっていく。 最中、雪虎がどこかへ声をかけるのが聴こえた。 「コメはあるのか? ああ、海苔に梅干しにゴマ…で、味噌は? あと最低、豆腐とわかめは揃えとけよ」 ? ? ? ? あまりにも日常的な言葉だ。逆に、意味がよく分からない。 大河の戸惑いなど気にもしていないのだろう、雪虎は言葉を続けた。 「は? さあな。気分次第だ。好きにしろ」 届くのは雪虎の声ばかりで、相手の声は、聴こえない。 すぐ、ドアが開き、別の部屋に入ったことは、目をついた眩しさで分かった。肌に感じる空気も違う。 ただ、昼日中の眩しさではない。もう、夕暮れ時なのだと、室内に満ちた茜色で悟る。 そこまで認識したところで。 「…っ」 投げ出された衝撃に、大河は呻いた。 固い床の上ではない。スプリングのきいた、ベッドの上。そう、感じた。 「さて、御曹司サン」 どこか、意地の悪い声で言い、雪虎は大河の顎を掴む。 大河の顔を固定。目を覗き込んでくる。 「俺がお前を嫌ってるのは、知ってるよな」 雪虎の顔が、視界に映った。やはり、一度目はどうしても、…目を、閉じてしまう。 ぞっとするほど、醜いのだ。 ―――――これは本当に、いったい、なんなのか。 「ああ、悪い悪い。気分のいいもんじゃないよな。ま、勘弁しろ」 疑問に感じる最中も、雪虎の声の位置は変わらない。近い。 そろり、心臓を整えながら目を開ければ。 …本当に、どういう仕組みなのか。 寸前の印象が嘘のような、見惚れるほどの面立ちがそこにある。 大河の目が、自身に真っ直ぐ焦点を合わせていることに気付いているのかいないのか、雪虎はどこか迷惑そうに告げた。 「なんにしろここに来て、無防備になったお前が悪い。それなりの嫌がらせをし…いや、弱味を握らせてもらう」 弱味? …いったい何のために。

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