41 / 197

日誌・40 予想外の大物

実のところ、言われるまでもなかった。 大河はさやかに対して、そんな心配はしたことがない。 出会い頭から、察していた。 ああ、この人は、絶対、大河を好きにはならないだろうな、と。 大河だけではない。 誰のことも、きっと彼女は好きにならない。愛さない。正確には。 愛せない、ひとだ。 「それは分かります」 驚きすぎて逆に冷静になった大河は、掠れが引かない声で応じた。 (…驚いた? 僕が) この事実に、なんだか楽しくなってくる。 「水川さんは、ある意味、僕と同類でしょう」 双方、他者からの愛を望んでもいないし、受け容れるつもりもない。傲慢と承知の上で、迷惑とさえ感じる。 大河よりもさやかは、それがはっきりしていた。 そこは、二人とも同じだ。 異なる点は、一つだけ。 「それに、あなたは―――――誰も愛せないひとだ。性的な意味、では」 大河の、冷静な指摘に。 さやかは、ホッとしたように笑った。 「やっぱり、分かるの? あなたも変わってるからかしらね」 「変わっている…僕『も』、ですか」 「だって、そうでしょう。愛は欲しくないのに、愛したい、だなんて」 普通、逆よね、と呟いた時には、さやかはいつもの冷ややかさを取り戻していた。 大河は驚く。 さやかの言葉が、正しかったことに。 そこまで見抜かれたのは、はじめてだ。 「御子柴くんは、愛し方が分からないみたいだけど」 少し優越感めいたものを覗かせ、さやかは胸を張る。 「わたしはちゃんと、トラちゃんが好きよ」 なぜ、さやかがそうなったのかまでは分からない。ただ、彼女から感じる一種独特の冷たさは、容姿のみならず、内面的なものが影響している。 大河は少し、拗ねた表情で言った。 「家族として、でしょう」 もちろん、彼女にとって、それだけ、雪虎は特別と言うことだろうが。おそらくは雪虎にとっても。 「だからこそ、分からないんです。愛情を鬱陶しがるあなたが、なぜ、結婚を?」 しかも、脅してまで、大河に申し出るとは。 さやかは、話を逸らしたりはしなかった。 大河を真っ直ぐ、見て。 告げる。 「わたしは、力が欲しいの」 いかにも冷静な顔で、表情に似つかわしくないことを。 「誰にも虐げられない、そんな―――――力が」 その言葉に合わせて。 ―――――ふ、ぁ――――…ッ。 画像の中の大河が、なんの言い訳も通じないほど、誰の目にも明らかに、…達した。 反り返った背中。痙攣する内腿。性器に、射精の気配はない。ただ、濡れそぼっている。 そして、その表情ときたら。 思わず、大河は目を背けた。 「御子柴くんのパートナーになったら、もっとたくさんの力を手に入れられる。もちろん、それなりの代償だって支払うわ。わたしはあなたを裏切らないし、仕事にも献身的に協力する。そうそう、一人くらいは子供をつくりましょうね。わたし、子供は好きなの」 確かに。 さやかが信頼できるなら、―――――これ以上なく頼りがいのあるパートナーだ。 「それにね、もうひとつ。あなたには利点があると思うわ」 ふっとさやかが操作し、画面を消した。 あられもない嬌声と、しつこく続いていた粘着質な水音が消える。 「わたしと一緒になるって言うことは、トラちゃんともずーっと一緒ってことよ」 大河の表情に、変化はない。ただ、黙ってさやかを見直した。 「トラちゃんは、絶対わたしを見捨てない。子供の頃から、ずっとそうだったわ。これからもそうよ」 その通りだ。 雪虎は、さやかと縁を切ることはないだろう。 少し接しただけでもわかる。彼は、一度懐に入れた相手には、とことん甘い。 幼い頃から共に過ごしたと言うさやかなど、その筆頭たる相手だろう。 それは、分かる。 分かるが、 「…なぜ、それを僕に?」 「あら」 さやかは親しげに微笑んで見せる。ただやはり、目は笑っていない。 「分からない?」 とたん、大河の顔に浮かんだのは、微かな嫌悪だ。 「御子柴くん、無意識でしょうけど、そういう表情止めた方がいいわ」 まるで実験動物の反応のひとつを解説するように、さやかは淡々と言った。 「真っ白で無垢な生き物って雰囲気がして、…汚してやりたいって思うひとって、多いと思うから。それとも、狙ってやってる?」 さやかは勘がいい。とっくに、見抜いているのだろう。大河が、雪虎に惹かれていることに。 間違いなく、―――――雪虎は、さやかを切り捨てない。 「トラちゃんを飼いたいなら、わたしを鎖にすればいいわ」 それこそが、脅しよりなにより、一番に、大河の心を揺らしている。 さやかが大河の手元に納まっている以上、雪虎は決して大河を無視できない。 大河が雪虎とのつながりを、持っていたいなら。 さやかの申し出は、…悔しいが、正解だ。 「さあ、どうする? 受け入れてくれるなら、わたしは全面的にあなたの味方よ、御子柴くん」 「僕が、今」 まったく焦った様子もなく、試すように、大河は穏やかにノートパソコンへ手を伸ばした。 「ソレを力づくで奪うとは思わないんですか」 さやかは動じない。 それどころか、はいどうぞ、と渡すようなそぶりすら見せた。 「奪われても構わないわ。もっと魅力的な提案を、…ほら、今、したでしょう」 さやかに触れる直前、大河は手を止める。すぐ、下ろした。 「思った通りね」 「何がです」 「御子柴くんみたいな子は、トラちゃんから離れられなくなるの」 今まで何人も見てきたわ、とさやか。 「本人、自覚はないみたいだけど、今回も、当たりだったみたいね」 ただそれでも答えない大河に、さやかは後押しするように口を開く。 「そうねえ。じゃあわたしも、絶対、他人に言いふらせないこと、告白するわね」 さやかは無防備に、身を屈めた。いたずらに、大河の耳元に唇を寄せる。 「わたしね、濡れないの」 すぐに離れたさやかの表情は、冷ややかだ。いつも通り。 言いにくい秘密を明かした、そんな蟠りは見られない。どこまで本当かも読めなかった。 大河は首を横に振り、別のことを尋ねる。 「トラさんは、このことを知らないと水川さんは繰り返しますね。…では、こうして、僕に取引を持ち掛けたことも?」 そう、これは取引だ。さやかと大河の間では、この言葉が正しい。恫喝、という言葉は当てはまらなかった。 「そう、知らないわ。トラちゃんは」 雪虎は知らない。 さやかは、先ほどから、何度もそう繰り返す。わざとらしいほど強調して。彼女一人の企みだと。雪虎を利用した、と。とはいえ、その本心ははっきりしている。 雪虎の心身を少しでも損なうことがあったなら、さやかはたちまちのうちに攻勢へ転じるだろう。 大河を敵と見做して。 今回のことは、ある意味、試験だったに違いない。 大河が雪虎を攻撃するか、…それとも。 「知らない?」 大河は独り言めいた声で呟いた。 「それだけでなく…トラさんには知られたく、ないのでは?」 さやかの唇が弧を描いた。そう来なくては、と言う好戦的な笑みだ。 言動から逆に弱点を握られて立場が逆転した、…そんな焦りは一切ない。 ここで大河のやり返しを喜ぶあたり、さやかも大概、普通の女とは程遠い。むしろ望んで弱点を掴ませた、そんな雰囲気すらある。 「ご明察。だから、ね。知られる危険は事前に排除してるの」 一方的に意のままにされるだけの相手では、彼女の共犯者にはなれまい。大河のパートナーにも、だ。 「今、この部屋のカメラは停止してるわ。ここでの会話は、誰も聞いてないし、見てない」 つまり、今の会話は、誰も知らないわけだ。お互い以外は。 「…つまりね、必要ないわよ」 「何がです」 「演技」 微かな嫌悪を顔に浮かべていた大河は、ふ、とわずかに肩から力を抜いた。 互いの弱味を晒し、作りあって、一緒に泥沼に沈みましょう、とさやかは誘っているわけだ。 まずそうすることで、やっと互いに安心して会話できるから、と。 なるほど―――――正しい、と大河はさやかに頷いた。なにより、面白そうではないか? 大河は立ち上がる。さやかと一定の距離を保ったまま。 手を伸ばした。…今度は。 握手のために。 「では、―――――歓迎しますよ」 にこり、大河は害のない笑みを浮かべた。 「ようこそ、悪徳の一族へ」 これから大河とさやかは、共犯者だ。 もう少し見極める必要はあるが、おそらく、問題はないだろう。 大河の手を握り返しながら、さやかが言った。 「ありがとう、それから、…ご愁傷様」 この時、彼女は初めて、悪戯が成功した子供めいた表情を見せる。それがなんとなく、雪虎に似ていた。 「トラちゃんは蟻地獄よ」 「…どういうことです?」 「長く付き合えば分かるわ」 つまりはこの場で今聞いても意味がないということだ。 「そう言えば」 どちらからともなく手を放し、大河は尋ねる。 「トラさんの遠縁で、血統書付きの家系があると仰いましたが…名は何と?」 ああ、とさやかはどこか、冷めきった表情で答えた。 「月杜よ」 ―――――それは、予想外の、大物。

ともだちにシェアしよう!