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日誌:45 家族ごっこ
大河の頭の中が、真っ白になるのは、すぐだ。
彼が、動きについていくのでやっとだと気付いていながら、雪虎は囁く。
「バイトに謝れつったから、さやかは里帰りするんだろ。折角だ、ガキ共連れて、お前も来いよ。ばあさんのとこでもてなしてやるから。一泊して行け」
結合部から上がる、濡れた音の向こうで。
大河の耳に、その言葉が聴こえたかどうかは分からない。
聴こえていても、聴こえていなくとも、さやかのことだから、きっと今雪虎が告げた行動を取るだろう。
刹那、雪虎の唇に自嘲が浮かぶ。
こうやって、平気で身体をつなげながら―――――家族ごっこも捨てられないとは。
さやかと大河の子供は二人。雪虎にとっては、甥と姪のような存在だ。
めちゃくちゃ可愛かった。だが住んでいる場所が遠いから、なかなか会えない。
出産を機に、さやかが里帰りと称して地元に戻ってきた際、一緒にいたのは雪虎で、おむつやミルクの世話も雪虎の役目だった。
その際に居座ることになった場所が、雪虎にとっては母方の祖母の家だ。
祖母の名を、巴と言う。彼女は、雪虎が小学校六年の時に他界した。
家だけ残り、母・多恵子の所有となっていたが、諸事情あって、さやかが手に入れた。
さやかは当たり前のように言ったものだ。
―――――トラちゃんがそこに住めばいい。
だが雪虎にはできなかった。
たまに空気を入れ替えたり、掃除・草抜きをする以外には、近寄らない。
あまり、…触りたくはないのだ。時間が経つにしたがって、祖母がいた痕跡がすべて消えてしまいそうな気がして。
死者へのそんな未練など迷惑極まる、と祖母なら叱りつけてくるだろう。
どれだけ弱いのだ、と雪虎も、自身を罵らずにはいられない。
そろそろ三十歳になるというのに、未だ、臆病の病は消えない。
巴の家に、雪虎は小学校二年の時から住んでいた。
親元を離れ、子供の雪虎が祖母の家に預けられたのには、理由がある。
―――――精神的に異常をきたしたのだ。
一言も口を利かず。
喜怒哀楽も消え。
ただ食べて寝るだけの人形になった。
なぜ雪虎がそんなことになったのか。
それは、月杜から分家した曾祖父の気質が起因しているだろう。
そもそも雪虎の曾祖父が月杜から出されたのは、彼の妬みが深く、跡取りの兄弟を殺しかねない勢いがあったからだとされている。
勝たねば、一番でなければ、と言う思い込みが強く、雪虎の曾祖父は、子にも孫にもそれを強要した。
二番でも三番でもダメだった。
出した成績に、一人でも上がいれば、罵倒の洗礼を何時間も浴びねばならなかったようだ。
時にそれは、肉体への暴力となった。
それが続けられた結果、八坂家の性質がどう歪んだのか。
一番に対する執着は、自分以外のすべてを否定する方向へ向かったようだ。
生まれた時から、雪虎は、そういった父親の罵倒と否定の中で育った。結果。
やることなすことすべてを否定され、なにをすれば正解か、見えなくなっていたように思う。
親、という、子供にとって、頼るべき相手から、一つの肯定も与えられなかったことで、幼い精神は支障をきたしたのだろう。
挙句、自身の存在そのものを、雪虎自身が否定し始めた。
妹の美鶴は女の子と言うこともあってか、父親のあたりは柔らかかった。美鶴にそう言った問題は起きていない。
とうとう、食べ物が雪虎の喉を通らなくなった時だ。
両親は雪虎の状態を隠し続けたが、異常に気付いた大人が一人いた。
月杜の先代だ。
だが彼が出ては、雪虎の父親が意固地になり、よけい事態はこじれることになる。
幼い雪虎の状態を考えれば、事態は早急に収束させるべきだった。
そこで彼が頼ったのが、巴だ。
雪虎の母、多恵子の親である。
多恵子の父親は既に他界しており、残った彼女は、評判の賢明な女性だった。
月杜の血の外にあり、しかも後妻であったため、多恵子にとっては義理の母にあたる。
即ち、多恵子にとっても雪虎にとっても、血のつながりなどない、赤の他人である。
にもかかわらず。
月杜の先代が密かに手引きし、何も知らず雪虎を連れて現れた多恵子と巴が面談した結果、巴はその場で即決した。
曰く、―――――雪虎は自分が預かる、と。
巴は、迷いもなく雪虎の手を引いて出ていこうとした。
寸前、多恵子が巴に縋った。
連れて行ってくれるな、と。
それが、母としての情から出た言葉なら、巴も悩んだろう。だが、多恵子が続けた言葉と言えば。
―――――連れて行かないで。その子を連れていかれると、わたしが標的にされるの。
誰の標的に、か―――――想像は、容易かった。
狼狽える多恵子に、巴の顔色が変わった。
間髪入れず、彼女は義理の娘の頬を引っ叩く。
―――――母親のアンタが守らないで、誰がこの子を守ってくれるんだい!
わんわん泣き出した娘の多恵子を捨て置き、なんの表情も浮かべない雪虎を連れていく巴。
正直、その辺りの記憶は雪虎にはない。
これは、あとから、さやかから聞いた話だ。
そんなだったか、と驚いた雪虎が聞けば、
「トラちゃんは覚えてなくていいのよ」
むしろそれを望むようにさやかは強く言って、続ける。
「少なくとも私にとって、あの光景は強烈な記憶だわ」
その後、雪虎が小学校六年で巴が亡くなるまで、雪虎は彼女の元にあった。
そのためか、現在の雪虎の性格は、巴とよく似ていると言われる。巴をよく知る人から見れば、どうやら類似点が多いらしい。
さやかもよくそう言うが、雪虎から見れば、さやかの性格の方が、巴に似ていると思う。
なにせさやかも、雪虎と同時期に巴の家に居候していたのだ。
巴からの影響は、確実に受けている。
なぜさやかまで、巴が面倒を見る羽目になったのか。
それはいつも、雪虎とさやかが一緒にいたからだ。
より正確に言えば。
小さな雪虎が、同年代のさやかの面倒を見ていたのだ。
どうしてそんなことになったのかと言えば。
夜の仕事をしていたさやかの母親が、子を産むだけ産んで、育児放棄したのだ。
父親は不明。だが、さやかは何度か、母親からこういわれたことがある。
―――――子供ができたら、あの男を引き留められるかと思ったのよ。
でもできなかった、役立たず、と。
さやかはいつもお腹を空かせていた。
近所の子供たちは不潔で発育の悪い、目ばかりがぎらぎらと大きいさやかを薄気味悪い、と無視していた。
一方、雪虎は醜さのあまり、気持ちが悪いと避けられていた。
雪虎がさやかを放っておけなかったのは、同族意識からだろう。そして、もう一つ。
さやかは雪虎を避けなかった。
小さな頃、雪虎とさやかは、お互いだけが唯一、自分をいないように扱わない、存在を認めてくれる相手だったわけだ。
「わたしはトラちゃんがいないと死んでたのよ」
さやかはよくそう言うが、冗談でも何でもない、それは単純に事実だった。
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