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日誌・60 犯してよ
雪虎は嘆息。深く、長く。
「―――――ああ、分かった、分かった」
許すも何も、雪虎と情報屋の関係など、端からこんなものだ。いつも通りじゃないか?
「許す。これで、いいのか」
意味は分からないが、雪虎のこの一言が入用なのだろう。宥めるように、言えば。
電話向こうで、妙に重い沈黙が、…続いて、
『トラあああぁぁ…うう、好きぃ』
号泣に交じって、そんな言葉を告げられた。これはおそらく鼻水も垂らしている。
雪虎は首を傾げた。
おかしい。
翔平なら、雪虎のこういう甘さを、舌を出してあざ笑うはずだ。いつも言われていた。
―――――懲りないよね、トラって、毎回騙されてさ。バカじゃん?
それがない、とは。
「キモい」
一刀両断しつつ、どうなっているのか、と眉をひそめるなり。
『…甘いことだ』
聴こえた声に、息を呑む。
「え…あ…はぁっ?」
向こうで、もしかすると、情報屋のスマホはスピーカーになっている可能性があった。拾ったその声は、
「会長?」
間違いない。月杜秀だ。
彼と、翔平。そぐわない組み合わせだ。
「なんでそんなクズと一緒なんですか」
『クズって、トラも似たり寄ったりだよね!?』
またぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた声が、
『あ、やだ、待ってください、ごめんなさい』
飼い猫のようにおとなしくなる。
『でもトラは許してくれたんで、―――――いいですよねっ? 死神が持ってるスマホの番号だって教えたし!』
そんなことを言いつつ、遠ざかっていった。
首根っこを掴まれて運ばれていく猫を想像する雪虎。
向こうはいったい、どういう状況なのか。
聞くに聞けず、黙っていると、
『トラ』
無視は難しい、秀の呼びかけ。
「…なんですか」
『帰ったら、顔を見せなさい』
声は、静かだ。静か、だったが。
びく、と反射的に背筋が伸びた。―――――これは、命令だ。
(なんだ?)
雪虎は眉をひそめる。
なにをそんなに、怒っているのか。
戸惑うものの、素直に従うのは、癪に障る。だが。
…なんだか、古なじみの命が担保になっている気がした。
どうでもいい相手だが、見捨てるには忍びない。なら。
―――――答えは、決まっていた。
「…分かりましたよ」
いかにも不本意そうな雪虎の返事を待って、ぶつん、と通話は切れた。
大きく息を吐きだす雪虎。とびきりの面倒ごとが起きた。
スマホをポケットにのろのろとしまい込む。
「トラさんが会長ということは」
珍しく待ちかねた態度で、黒百合。
「…月杜の御方が?」
気のせいか、声が固い。
ただその物言いに、雪虎は引っかかった。
「知りあいか?」
「滅相もありません」
黒百合が、ミラーの中で、視線を外へ流したのが分かる。
「ただ…いえ、トラさんには問題のないことです」
―――――おかしな言い方だ。
関係がない、ではなく、…問題がない、とは。
だが、追及する気も起きず、雪虎は背をシートに預けた。くさくさした気分のまま、独り言めいた声で言う。
「帰ったら顔見せろってさ」
親かよ、と言いさし、言葉に詰まる。代わりに出たのは、ため息だ。
本当に親のつもり、かもしれない。
迷惑、と思うと同時に。
…だからこそ、無視もできない。
「…危険なのでは」
唐突に、黒百合が呟いた。
雪虎は目を瞬かせる。
何が、と尋ねようとするなり。
後部座席のドアが前触れなく開いた。そこへ、無言で滑り込むように車内へ入ってきたのは。
風見恭也。
上等の生地で作られたオーダーメイドのスーツに、ブランドものの眼鏡。
時計や靴も一級品で揃えており、育ちのいい、有能そうな青年に、十分化けている。ただ。
やはりどこか、野生の獣めいた印象は消えない。
そう言えば、『仕事』帰りだもんな。頭の片隅でぼんやり考えながら、
「おかえり」
ドアを閉めた恭也に、雪虎は自然とそう言った。刹那。
ふ、と青い目が瞠られる。
恭也は知らない言語で話されたかのように、雪虎をまじまじと見つめた。
「なんだ」
珍獣でも見る眼差しに、雪虎は面食らう。
「ああ、うん」
恭也は物珍しそうに雪虎を見つめたまま、
「『おかえり』なんて台詞、日常で使う人はじめて見た」
「あ?」
「ドラマ専用の言葉かと思ってたけど、違うんだね」
バカにした様子はない。本当に、単純に驚いた、といった態度だ。雪虎の方が、反応に困る。
…こいつは今までどんな生活を。
つい思ったが、そのあたりは、雪虎が追及していい範囲ではない。代わりに、
「なら、知ってはいるんだろ」
「なにを?」
「『おかえり』って言われたら?」
恭也は少し、驚いたような顔をして。
微かに、はにかんだ表情で言った。
「ただいま? …うわ、恥ずかしいよこれ。なんで普通の顔で言えるの」
照れたように手の甲で頬をこする恭也の感覚が、やはり雪虎には理解が難しい。
場を仕切り直す態度で、恭也は運転席を見遣った。
「黒百合」
心得た態度で、黒百合。
「後始末は、担当の者が致します」
「残りの自由時間は?」
「許されているのは、あと二日ほど」
「じゃ、まずはトラさんを送ろう」
当たり前のように言う恭也に、
「いや金貸してくれたら自力で帰るけど」
雪虎が言った言葉は無視された。
「では出発します」
エンジンがかかった…ようだ。だが、車内は静かなものだ。同時に、
「って、はあ?」
運転席側と後部座席の間に、色の入った仕切りが上がってくるのに、雪虎は唖然と声を上げる。
最初の移動の時は、国産の、女子が好みそうな可愛らしい軽自動車だったわけだが。
今乗っている、見慣れないが大きな車体の普通車は、日本の会社のものではないエンブレムをつけていた。ちなみに左ハンドルだ。
(外車で、こんな作りって…)
ちゃんと車検を受けて、保険にも入っているのだろうか。少し不安だ。
あっという間に、黒百合の姿は見えなくなる。
我に返る雪虎。
「いやだからさ、お前らも疲れてるだろ」
こんな状態で、事故でも起こしたら目も当てられない。
「変なこと言うね」
直後、恭也は何かに気付いた態度で言いなおす。
「あ、そうか。もしかして」
雪虎に尋ねるように、言葉を続けた。
「ぼくらは三日徹夜でも集中力途切れないでいられるけど、これはトラさんの常識からして、普通じゃないのかな」
恭也の言葉に、雪虎は何かを言いかけ、結局、口を閉じる。
彼らと雪虎の間で、何かが食い違うのはいつもの話だ。
舌打ち。
言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「単に、心配なんだよ」
「ふうん?」
理由は分からないが、恭也はなぜか、雪虎を疑いの目で見てくる。
「昨夜もずっと車走らせてたし。俺のことはそこらで降ろしてくれていいから」
タクシーを捕まえれば、何とかなる気がした。
金額はかさむだろうが、家に戻れば金がある。
恭也は前を向いたままネクタイを緩めた。
「だめだよ、トラさん、だってまだ」
言いつつ、素早く、身体の位置を変える。
後部座席に座った雪虎をまたぐように、向き合い、恭也は彼の両肩に手を置いた。
「ぼくら、取引をしてない」
取引。―――――つまり。
恭也の手が、見せつけるようにベルトを外していくのに、
「いやいや、ちょっと待て」
その手を掴んで雪虎は止めた。
「今回のことは、取引とは別次元の話だろ」
「トラさんと顔をわせた段階で、ぼくには同じことなんだけどね。…そうだな、今回のことが取引にはならないって言うなら」
恭也は、雪虎の耳元で囁く。
「合意でなら、してくれる? ひとつも抵抗しないからさ。ぼくを存分に犯してよ」
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