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日誌・96 魔女
「それね」
翔平は、くりくりの頭を、ガリガリ掻いた。
「『魔女』が関わってるつったでしょ」
「ああ」
「それがどうも、狙いは今回の取引に関わった、誰か個人らしいんだ」
「は?」
10号は聞き慣れない言語を聞いた態度で、翔平を見下ろす。
「オレ、あの子は、その『魔女』に対する生贄の羊じゃないかなって予測してるんだけど」
「待ってください」
驚いたように目を瞠る10号。
「個人、ですか。『魔女』なんて、でっかいヤマしか受けないでしょ? …なんですか、世界中から狙われる賞金首でもいるんですか」
「いや。でなくて」
翔平は、皺の寄った眉間を揉んだ。そういう仕草は、親父臭い。
「個人からの依頼を請け負ったらしい。この恨み、晴らしてくれってな感じで」
「…『魔女』が、ですか?」
向けられたのは、半信半疑の目だ。さもありなん。翔平も、にわかには信じがたい。
だが翔平が知るすべての情報を合わせて考えれば、どうも、それを示唆している。
二人が見つめあった、その時。
「―――――興味深いお話ですね」
すぅ、と清涼な風のような声が鼓膜をとろかすように夜闇を震わせた。
しかも、だらけた姿勢では落ち着かなくなるような、上品な声音だ。思わず翔平の背筋が伸びた。
同時に、前触れもない声に、翔平は心臓が口から転がり落ちるかと思う。
…話に夢中になっていたとはいえ、周囲ではなんの音もしなかったように思えるのだが。
(ああ、いや)
そう言えば、ここに来るまでに、何台かの車がそこかしこの雑草を踏みつけにしてきている。ここから先の雑草は丈が高くて、車で進むことは無理だが。
背後に広がる原っぱ、その少し手前で車から降りてくれば、音もたてずにここまで近寄ることは可能だろう。
ただし。
―――――場所が場所、時が時である以上、一般人が道に迷って、ということはあるまい。
…そして、おそらく。
状況から考えれば、相手は。
先に振り向いた後輩が、調子はずれの口笛を吹いた。
その態度で、翔平は現れた相手が誰か、確信を持つ。
同時に、能天気な後輩の足を、腹立ちまぎれに踏みつけた。黙る後輩。
こいつに話をさせるわけにはいかなかった。
翔平は、いやいやながら振り向く。
と、夜闇の中、それぞれの手に明かりを持ったスーツの集団が、無言で立っていた。
その、先頭に。
優雅な笑みを浮かべた青年が一人。
本当に生きて血の通った現実に存在する人間か、と疑ってしまうほど整った容姿をしている。
そこに立っているだけで、周囲を別世界に変えるような、強烈な印象があった。
間違いなく、この男は。
「…はじめまして。僕は御子柴大河と言います」
聞きたくなかった自己紹介に、翔平は内心呪いの言葉を吐きだす。
翔平を映す、大河の目が笑っていない。その眼差しは冷ややかだ。
逃げたい。でもきっと、逃がしてもらえない。
黙り込んでいると、大河が穏やかに促してくる。
「あなたは?」
どうか、雪虎もさやかも、この男に翔平のことを話していませんように!
天に願い、翔平は項垂れながら答えた。
「…舟木翔平、です」
果たして、大河の視線の温度が極端に下がる。
「ああ」
声だけは優しげに、呟いた。
「あなたが」
大河はそこから、一歩も動いていない。
だが、彼から山が伸しかかってくるような重圧を感じるなり、翔平は心を決める。
これから、全力で尻尾を振る。
女性の母性本能を本気で崩しにかかってくる、と言われる愛くるしい笑みを浮かべ、翔平は渾身の媚を売った。
より以上に、自分の能力を売り込みにかかる。
「知りたいことがあったら、聞いてください。なんでも答えてみせます」
× × ×
これが、三つ巴ってやつね。
女はばかばかしい気分で、空港裏の空き地で繰り広げられる光景を見つめた。
さらにばからしいのは、彼女も三つ巴の中の一つの集団にいることだ。
一方は、外国人の集団。
もう一方は、日本の若者たちの集団。
そして、残るひとつは、スーツの男たちの集団。
三者三様に睨みあっている。どちらかの勢力に漁夫の利を与える愚かな行動もとれず、全員が動きかねている状況だ。
女は、日本の若者たちの集団の最後尾についていた。
それから、三つの集団がにらみ合う中心に、二人組の男がいる。
一人は、重そうなスポーツバッグを抱え、小動物のように震えるやせっぽちの青年。
もう一人は、帽子を目深に被って不遜な態度で視線を夜空へ投げる男。
丈高い草が途切れたその場所で、にわかに高まった緊張感に、やせっぽちの青年は泣きそうな声を上げた。
「な、なんで人気が無いこっちに走ってきたんですかっ」
彼こそが、若林悠太。この三つ巴の集団が捜していた人物である。
では、隣にいる男は誰なのか。
女には分からない。スーツの男たち―――――おそらくは御子柴と呼ばれるグループに属する彼らは知っているようだが、彼女にはどうでもいい。
ただこの場合に、男が心底落ち着き払っているのには、呆れるべきか、感心すべきか。
「俺、今夜国内線で地元へ帰る予定だったんだよ」
男の返事に、期せずして、夜空を飛行機が横切っていく音が落ちてくる。
「…間に合わなかったかな。金がもったいない。JRにしとくべきだったか」
「この状態で、帰れるつもりだったんですかぁっ!?」
「ばかだな、当たり前だろ」
「もういやだ、このひと!」
喚く青年は、どこをどう見ても無害そうだ。なのに。
…女は、内心舌打ちした。
彼女が生来、周囲にまき散らしてしまう呪いの糸が、彼に引っ掛かってしまっているのを理解したからだ。
無論、本来のターゲットにも向かっているが、これでは威力が半減するだろう。
理由は、おそらく。
(彼がターゲットに依存する状況であるせいね)
あの青年は、自らこう言ったことに首を突っ込むようには見えない。
ならば、絡め手で巻き込まれたのだろうが。
それがもし、彼女――――――『魔女』への対策であったなら。
(誰がそんな対策を、あんな、バカそうなヤツに授けたのかしら)
女はターゲットを見遣る。いかにも、筋肉バカ、そして目の前のことしか考えられない、一歩歩けば今起きたことも忘れそうな鳥頭だ。
ならば間違いなく、誰かが対策を授けた。となれば。
(ここに、『魔女』がいて、ヤツを狙うって知っている人間がいるってこと)
どうも、状況は一筋縄ではいかないらしい。
『魔女』という名称は、いつしか組織の公の名称になったが、はじまりの構成員たちへの、それは蔑称である。
そういった組織が、この世に存在することは広く知られているが、トップを固める構成員たちの存在は、ほぼ秘匿されていた。
さすがに、頂点に立つ存在は知られているが、その活動や目的は大半が秘されており、ゆえに彼らは秘密結社に分類される。
ただ、組織の性格はよく知られる通りのもので、長い歴史の中一貫して、薄暗い。
中でも、洗礼と称される、構成員の一人となるための、ひとつの儀式。
はじまりの儀式とされるそれこそが、構成員となるものに、これから歩む闇の深さを思い知らせる。
組織が代々有してきた土地、その奥地に。
石造りの塔がある。
その地下には、組織の所有物が保管されているのだが、中でも―――――最奥。
恐怖の塊とも言えるものが、そこに秘されていた。
はじまりの儀式において。
構成員になる雛たちは、まず、それと対面することになる。
対面して。
生きて、―――――正気で、塔の外へ出てくることが、最初の試練だった。
簡単だ、と言われるかもしれない。
だがそれは、生きたまま地獄へ放り込まれるようなものだった。
いいや、生きたまま地獄の焔に焼かれる方が、まだましかもしれない。
塔の地下、最奥に秘されたモノ。
それは、赤い。
凍らされ、活動を完全に停止している。
なのに、禍々しい赤は、たった今、力を取り戻し、動き出しても不思議はないほど鮮やかだ。
それは、一滴の、血液だった。
遠い昔、一人の男が流した、…たった一滴の。
それっぽっち、というのに。
原初の恐怖を煽る、どこまでも磨き抜かれた純度の高い、呪いの核であった。いや、結晶と言ったほうがいいのかもしれない。
日本では、それを。
―――――祟り、という。
血の持ち主の名は。
月杜。
今なお、日本にその血筋を残し権勢を誇る旧家。
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