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日誌・97 争えよ
彼女は最初、その結晶を見るなり。
嘘だろう、と思った。…息も絶え絶えに、喘ぎながら。
こんなものが、生きた人間の体内にあったわけがない。肉体に注入されたとたん、その人間は即死だ。
喘鳴を繰り返しながら、這って、塔の螺旋階段をのぼり、何時間もかけて、ようよう、彼女は合格を勝ち取れたわけだが。
今でも信じられずにいる。
あれが、人間の血液だったなどと。
極東の僻地にある一族の血が、ヨーロッパの片田舎の、昔は何の力も持たない小さな結社に過ぎなかった組織に、なぜ保管される羽目になったのか。
そこまでの資料はもはや残っていない。
ただ、はじまりの儀式において、その血への恐怖は、全身に刷り込まれている。
そんな一族がいるという場所には、いくら怖いもの知らずの彼女でも、できるだけ近寄りたくはなかったのだが。
彼女の母親は、日本人であり、母方の祖父母は、日本に住んでいる。
祖父はだいぶん昔になくなっていたのだが、祖母が先日他界した。
それで、どうしても、日本の地を踏む必要がでてきたのだ。
よそよそしい態度の両親と共に、彼女は葬式に出席したが、すぐ、目立たない場所に隠れるようにして一人で立っていた。
それが、いけなかったのか。
―――――どうか、お頼み申し上げます。
祖母の知り合いだったという女性に、話しかけられた。
その上で、大金を渡され、頭を下げながら願われたことがある。
―――――この男を、殺してください。
見知らぬ男の写真を見せ、祖母の葬式に参加した上品な喪服姿で、虫も殺せぬような優しげな風貌をした老婦人が、そんなことを、…願ったのだ。
―――――この男のせいで、孫は自殺しました。この男の、せいで。
男が何をしたか。
何をされ、孫が自殺したか。
微に入り細を穿ち、感情の動きの鈍い疲れ切った声で、老婦人は一通り、語った。
女が『魔女』であることは知らぬまでも、不可思議な体質であるゆえに、親からも忌避され、独りで暮らしていることを、祖母は気にしていた。
その体質のことを、すべて話さなかったまでも、聞いたものは何かを察するところがあったのだろう。
確かに彼女の体質は、意図して動かせば、簡単に命を奪える。
そういった類のものだ。
知らぬうちに体質に影響され、行ってしまった殺人に対して、動くような心も、もはや彼女にはない。
だが、引き受けます、などとは言いかねた。
祖母の故郷では、できれば普通の娘として過ごしたい。それに。
この身は既に、結社のもの。迂闊に『魔女』として行動はしかねた。
それでも、頑として返そうとした金を受け取らない老婦人に、ひとまず預かります、とその場は引いて、翌日。
返しに行った、わけだが。
その時はもう、老婦人もまた、孫の後を追っていた。
知らぬ顔をして、自分の家に帰ればよかったのだが、…後味が悪すぎる。
まさかたった一度の接触が、これほど、厄介なことになるとは思わなかった。
こうなれば、仕方がない。
彼女は事態のきっかけを作った男は、腹いせに始末していこうとこの馬鹿げた騒動に参加したわけだが。
状況はもっと、のっぴきならないことになった。
(…無関係な人間まで巻き込むとか…格好悪)
あとで上から厳重注意くらいは食らうかもしれないが、…色々ともう面倒くさい。
幸か不幸か、やせっぽちの青年、若林悠太に向かっていた呪いは、少し薄れてきている。
理由は不明だが、おそらく、ターゲットへの依存がそれだけ希薄になってきているのだろう。
これなら、彼への影響は少なく済む。…少しは、巻き込むだろうが、致し方なかった。
運が悪かったと諦めてもらおう。
このどさくさに、彼女の用事だけとっととすませてトンズラしようと顔を上げた刹那。
「おい、いつまで固まってんだ?」
スポーツバッグを抱えた青年の隣にいる、正体不明の男が、唆すように声を上げた。
「そろそろいいだろ、動こうぜ」
待つのは性に合わないんだ。
そう言いたげな態度で、男は右手を高く挙げた。
別に、無視してもよかったはずだ。だが、この男、変な引力がある。暗がりの中、操られるように、誰もが彼の挙げた手を見遣った。
すぐそばにいたやせっぽちの青年が、あ、と声を上げる。
「それって…」
その、手を。
男は、もう一方の手にしていたLEDライトで照らした。
指先に引っかけられたものが、見えた刹那。
―――――空気がざわめいた。
悪戯気に、男が言う。
「これ、なーんだ」
それは、鍵束だった。
女は驚いた。それこそ、今、最も問題になっているシロモノだったからだ。
昨夜、どさくさに紛れて紛失されたもの。
重要な取引の証拠がしまわれた場所を開ける鍵が、すぐ目の前に、ある。
男はすぐ右手を下ろした。
帽子を目深に被った彼の顔は見えない。
だが、口元が、にっと笑ったのが見えた。
その唇が、酷薄に告げる。
「争えよ」
たった今、この場全員から狙われる立場になった、と言っても過言ではないほどの状況になったにもかかわらず、男は。
どこまでも不敵に言った。
「勝ったヤツに、コレをやる」
あくまで優位に立つのは、自分とばかりに。
獲物でありながら、対等な取引相手のように。
そうしておきながら、何を思ったか。
LEDライトのひかりを顔に当てたまま。
男は、不意に、帽子を脱いだ。
折角見えなかった顔を、わざと晒すとは―――――普通に考えれば、自殺行為である。
一瞬女は、ただの目立ちたがり屋か、と思ったわけだが。
(―――――)
露になった、顔立ちに。
全身、総毛だった。
見えたのは、吐き気を催す醜悪さ。それは、他と同様だったろう。だが、彼女は『魔女』である。
他とは違うものが、見えた。
LEDライトに男の顔が照らされたのは一瞬だ。
誰もが顔を背けた刹那、すぐ、明かりは消された。だが。
女は血の気が下がるのを自覚する。血液が、氷にでもなった気分だ。
あれはまずい。あれはよくない。
―――――ああ、あれこそは。
(なんでっ、こんなところに…!)
男が手にした明かりが消えたことが、呼び水になったのか。
どっと周囲に熱気が渦巻き、いっせいに場の全員が解き放たれたのが分かった。
まるで、あの男にいいように操られているかのようだ。
その中で、女は叫んだ。
「だめよ、その男を殺してはダメ!!」
もし、あの男の血の一滴でも流れたなら、この場にいる全員、いや、土地そのものが最悪の結果になる。
「死ねば、この地が祟り場になる…っ」
嘘でしょう、と思う。
この目で確かに見たあとも、にわかには信じがたい。
祟りを体内に、魂に巣食わせた存在が、そこにいる。
生きて、平気で動いていた。なにより。
―――――正気を保っている。
あれで、どうやって均衡を保っているのか。
心も、身体も。
あまりに歪。
それなのに、…成り立っている。人間として。ならば、…ならば。
あの祟りが抜けた時、そこに顕現するものは。
―――――遍く歪みを平気で受け入れ、同時にただすモノ、それは―――――
考えさし、慌てて思考を止めた。
ああ、そうか。
ゆえに、『魔女』は畏れ、あの存在を避けて通るのだ。
今、はっきりと理由を悟った。
かの青年にかかった、『魔女』の呪い。
それすら、そばに立っているだけで、かき消そうとしている力の正体を。
女は、全力で警句を放った。
「あれは、月杜よ!!」
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