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日誌・99 借り

大河の視線は、雪虎の顔に固定されたままだ。一度も、鍵束には向いていない。 おそらく雪虎が持つ鍵束の中に、問題の取引内容が記されたデータが保管されている場所を開ける鍵があるはずだ。 書類などではなく、小さな記録媒体だろう。 だが大河はそれに興味などないかのように、手を伸ばさない。 一瞬、雪虎は、それを持て余した顔になる。 だが開き直った態度で、話を続けた。 「そう、ご褒美―――――報酬だ」 「何をお望みです?」 もはや、大河の声は、地底を這っている。 遼などは、彼の背後でその声を聴いただけで、ぞっとしたものだが。 雪虎は、ひとつも怯まなかった。 「ガリガリくんの身の安全」 言い切って、雪虎は、背後で面食らった悠太を引っ張る。 「わ」 意表を突かれた相手が声を上げるのも構わず、雪虎は正座を崩した相手の肩を気安く抱き寄せる。 刹那―――――ピリ、と周囲の空気が帯電したような気がしたのは、遼だけではない。 「いや、俺だってわかってるからな、御曹司」 改まって、何か言い出した雪虎に、遼は口を真一文字に引き結ぶ。 おそらく、雪虎は、今、周囲を痺れさせるような冷たい空気を醸し出す大河の心境を、何一つ分かっていないのだろうということが彼には理解できたからだ。いやきっと、雪虎以外の全員が、悠太の肩を抱く雪虎の手を見る大河の視線に気付いている。 あなたちょっと勘違いしてます、と合図したいが、どうすべきか分からない。 止めたいのに止められない、周囲の気持ちを置き去りに、雪虎は続けた。 「ことのはじめに、金を持って逃げたガリガリくんに、皆が振り回された。その苦労は分かってるつもりだ。けど、ここでガリガリくんを罰するのはちょっと違うと思う」 思い切り悠太に振り回された状況を、また斜め方向に掻き回した自分のことは棚に上げて、雪虎は真摯に言い募る。 「コイツはまず、御子柴の恩人だ」 大河の視線が、ようやく雪虎に戻った。 雪虎は大きく頷いて見せる。 「ガリガリくんは、小殿を誘拐から助けてくれたんだよ」 大河は表情一つ動かさず、淡々と言った。 「そう言えば、トラさんが見つける前に、誰かが大地を助けてくれたとさやかさんから連絡がありましたね。…そうですか、君が。ありがとうございます」 ぬくもりのひとつもない対応に、悠太はやせっぽちの身体をさらに小さくしている。居合わせた何人かが、彼の心の叫びを聴いた。 ―――――トラさん、もう止めて。 「持って逃げた金だって、結局、他人様のものだからって、腹減ってんのに、一銭金も使ってない。ちなみに、この鍵を拾ったのだって、ガリガリくんだ」 それが問題だったと言えば問題なのだが、確かにこうして並べていかれると、なかなかどうして、いい仕事をしている。 「あ、悪いけどな、犬。この金、そっちでなんとか処理してくれないか」 悪い空気の中に入りたくはなかったが、呼ばれたからにはいかねばならない。 できるだけ『無』の心持ちで、遼は、失礼します、と正座している二人に近寄った。 何事もなくスポーツバッグを受け取り、さっと引き上げる。 「トラさんは、彼を僕に売り込んでいるようですが、…つまり?」 大河が言うのに、察しがいいな、と雪虎。 「もう調べてるだろうけど、実はコイツ働く場所がないんだ」 ここまで言われて、悠太も状況を察したらしい。 気の毒に、顔色が青を通り越して土気色になる。 「御子柴で雇ってもらえないか? お姫さんはいいってさ。無理なら、俺のところもいいんじゃないかと」 とうとう、悠太はうわごとのように繰り返し始めた。 「すみません、すみません、もう本当、…すみませんスミマセン」 「なんで謝るんだよ?」 それだけは心底不思議そうに雪虎は言う。 そこで不意に、冷え切った大河の声が割り込んだ。 「………義兄さん」 とたん、雪虎は瞬きを一つ。 いきなり真顔になった。 悠太を放し、すぐさま、潔く頭を下げる。 「ごめんなさい」 雪虎の頭を見下ろし、大河は深く長いため息をついた。 その時にはもう、大河から怒りの気配はほとんど抜けている。 「え」 思わずと言った態度で大河を見上げ、悠太が目を丸く見開く。 「…兄弟、ですか」 次いで、雪虎と大河とを見比べる悠太に、 「あ、こいつ、俺の義理の弟な」 顔を上げた雪虎が、悠太を放しながら簡単に説明。 「昼間、お姫さん―――――俺の妹には会ったろ? コイツはあいつの旦那」 ぴ、と立てた親指を、大河に向け、雪虎は笑った。 その笑みは、なぜか、子供が自慢話でもしているもののようで、他人事として見ている遼でも、変に毒気が抜けるシロモノだった。 こういう笑い方をするから、雪虎に対して変に甘い者が多いのだ。 遼は、大河の背中を見遣る。 きっと彼は今回も、雪虎を叱り切れないに違いない。なにより。 この場で一番暴れて、日頃のストレスを発散したのは、大河だったりする。 現在の御子柴は、権力の移行中であり、ある意味、過渡期だ。 よって、社内でも色々と問題が立ち上がっており、今回の騒動などは、まだ可愛いものと言えた。 思ったとおり、大河は弱ったような声で言った。 「…いいですか、トラさん。今回は、舟木さんから、情報をすべて得ることはできたわけでしょう。鍵のことも知っていたわけですし」 「ああ、情報屋に会ったのか」 悠太の頭をわしゃりと撫で、雪虎は立ち上がる。 「その時点で、僕に連絡をくれても遅くなかったはずです」 「そりゃ、御曹司ならきれいに事態をおさめるだろうけどな、いかんせん、時間がかかる」 大河から怒りの圧が消えるなり、雪虎はしれっと本音を口にした。 「今回みたいに、雁首揃えてわっとやっちまえば、解決が早いだろ?」 ―――――無茶苦茶だ。だが、真理でもある。 あろうことか、今回、コトの一切はこれで解決しそうだ。 問題は、後片付けである。 段取りが台無し、と号泣する同僚を幾人か思いついて、遼は良心が疼くのを感じた。 天災と思って諦めてもらうしかない。 雪虎は大河の手を取り、気楽に鍵束を押し付けた。 そして堂々と、 「あとは頼んだ」 …後始末を押し付ける。 正座したままの悠太が、ぽかんとした顔を、雪虎へ向けた。 眉をひそめた大河に構わず、雪虎は周囲を見渡す。 「ところで、さっき、月杜がどうとか言ってた女がいなかったか?」 「…、はい」 言いたい言葉を飲み込み、大河は従順に頷いた。 きちんとしつけられた優等生の対応。雪虎にとっては都合がいいだろうに、なぜかそれが気に食わない、という態度で大河を一瞥し、彼は鼻を鳴らした。 「それが『魔女』か?」 結局、大河の態度については何も言わず、自身の質問を優先。 「おそらく」 「…その態度、逃がしたんだな」 「関わっても、ろくなことにはなりませんから」 答えた時には、大河の態度は、いつもと同じものに戻っていた。 「それに、先ほど、トラさんは死人が出ていないと言いましたが」 淡々と続ける。 「出そうですよ。この騒動の中、逃げ出した者が何人かいたのですが…その中から一人」 「逃げたのに、死ぬのか? 誰かに追われてるってことか? …って、まさか」 雪虎は言い淀む。 彼に頷き、大河は、足元で蹲ったままの悠太を見下ろした。 「どうやら『魔女』のターゲットは君の先輩だったようですね」 悠太は青ざめ、口を真一文字に引き結んだ。 大河に下手なことを言えば、命がなくなるとでも思っているような態度。遼は感心する。 (勘がいいな) 確かに、その危険はあった。 表向きいくら優しく親切なようでも、大河の本性は残忍だ。 「ところで、トラさんは、今夜飛行機で帰る予定だったのでは」 大河が話題を変えるのに、何か考え込む様子だった雪虎は、我に返ったように頷いた。 「その予定だったけど、もう無理だな。その辺のカプセルホテルにでも泊まるわ」 雪虎の物言いに、 「今日も、御子柴に泊まって行かれてはいかがです?」 大河が意外そうな声を上げる。雪虎は首を横に振った。 「いやほら、今日、御子柴の義父さんと義母さんとお姫さんたちとさ、外食の予定だったろ」 「そうですね。ですがもう、この時間ですから、事前に断られたのでしょう?」 「ああ。急用が入ったから、悪いけど今日はもう帰るって言った。俺の荷物は運送会社に頼んで送ってくれって伝えてさ」 大河は納得した態度で頷く。 「なら、まだこちらにいたとなれば、理由を聞かれますね」 「…俺、嘘つくの苦手なんだよ」 苦々しい顔になる雪虎。大河やさやかと違って、感心するほど、表情豊かである。だがそれをコントロールする力は、雪虎にはない。 嘘をつくのが苦手というより、彼は嘘がつけない。 結局正直に答えるほかなく、そうなれば、さやかなどは「わたしに黙って危険なことを」と怒り出すだろう。 怒られるのは仕方ないとしても、それ以前に、雪虎は彼女に心配をさせたくないはずだ。 大河は、足元の悠太を一瞥、少し考え込むように雪虎に尋ねた。 「ホテルに泊まるとなれば、彼も一緒に?」 「そりゃ、放っとくわけにもいかないしな」 「え! いえ、車が戻ってきたので、ぼくはそちらで」 「車譲ってくれた相手が合鍵持ってたのはよかったけど、さっき、壊れたじゃないか」 雪虎の指摘に、悠太はショックを受けた表情で黙り込む。大河は、いかにもしょうがないと言った態度で、ひとつ頷いた。 「御子柴に、すぐ、部屋をひとつ用意させます。君は今晩、そちらで泊まってください」 ぎょっとした悠太が何かを言おうとする頭を押さえつけ、雪虎は明るい声を上げる。 「そりゃ助かる」 「ちょ、ト、トラさ」 押さえつけられながら、悠太は声を上げた。いくらなんでも、大河に対して都合よく面倒ごとを押し付けすぎだ。分かってるよ、と、悠太の抗議の視線に、雪虎は頷いた。真っ直ぐ、大河を見遣る。 「借りができたな、いつでも請求してくれ。どんな払い方でもする」 「借りって…」 びっくりしたのは、悠太の方だ。 「ぼ、ぼくのことで、何も、トラさんがそんな」 大河はこれ見よがしにため息をつく。 「簡単な話です」 いきなり、冷たい声が降ってきて、悠太は小さくなって大河を見上げた。向けられた大河の眼差しは冷たい。 「昔からトラさんは、見捨てられた子供に弱い。単なる同情で―――――誰にでも平等」 「おい、…こら、御曹司」 何を察したか、雪虎が大河の肩を掴む。拍子に、大河の視線が、悠太から離れた。 とたん、せき込み、その時になって、悠太は自覚する。 (…あ、息、止めてた…) 大河と目が合っている間中、なんというか、呼吸一つすら、彼の神経を逆なでしそうで、野生動物を前にした心地で固まってしまっていた。 雪虎は一度、顔をしかめる。 だが、大河の表情に何を思ったのか、すぐ、彼の肩から手を放した。 「…じゃ、俺はもう行くわ」 「何を仰ってるんですか?」 離れていく手首を、大河が掴む。 夜闇の中、その声から、大河が笑っているのが分かった。 「トラさんも来るんですよ」 「御子柴の屋敷へ、か? けど、…さっきの説明、聞いてたろ?」 「はい。なので」 大河の指先が、つ、と雪虎の手首の輪郭を確かめるように辿る。 「僕の部屋へどうぞ。あそこは僕以外、誰も入りませんから」

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