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日誌・104 押し売りで借りを返す

雪虎は沈黙を保つ。ただ大吾の言葉を聞いていた。 心の中で、ため息をつく。 (よく見ておいでだ) まさに、事実は大吾の言葉通りだ。 さやかは、戦う力が欲しくて、御子柴に入った。 ―――――誰にも虐げられない強さを、彼女はずっと求めている。そのために。だが。 雪虎は痛ましい気分で目を伏せた。 (求めすぎて、…あの子は) もう止まってもいい、もう十分だ―――――そのラインが、もう、見えなくなっている気がする。 …いつか。 雪虎は、さやかに通告すべき時が来るのかもしれない。 これ以上そちらへ行くな、と。 走らなくていい、立ち止まって、休みなさい、と。 だが、時折、思うのだ。 (もう、遅いのかもな) 今はまだ、兄であり、妹である、子供の頃からのそんなおままごとが続いているけれど。 ―――――道は完全に、分かたれてしまった。 「しかし、君は、―――――トラくんは違う」 大吾の視線を頬に感じ、雪虎は目を上げる。 「御子柴の体質に影響を受けず、なおかつ」 独り言のように、大吾は続けた。 「無償の献身をくれる。ただ、『御子柴大河』個人を見てくれている。御子柴の直系には、―――――望むべくもない、贅沢なシロモノだ」 だから君を望むのだよ、と大吾が締めくくった時。 ドアが開き、大河が部屋に戻ってきた。 ―――――そして、今。 大河の部屋で、雪虎は椅子の背もたれにもたれかかる。 あの時、大吾にも聞けばよかったかもしれない。 歴代の、御子柴の人間の中に、伝承の外へ出られたものはいるのか、と。 だがそんな雰囲気でもなく、大吾からは何か、御子柴であることへの諦めが滲んでいた。 つい先日までの、雪虎のように。 現状を受け容れ、そうすることで、諦めていた。そうする以外に、ないから。 だからこそ、だ。 あのような話―――――雪虎へ、御子柴への誘いが出たのは。 だが、本当に? 本当に、そうなのだろうか。諦めるしか、方法はないのか。 ―――――あれは、月杜よ! 不意に、先ほどの騒動で聞いた女の声が蘇る。 つまりは、その女は、雪虎を見ただけで、月杜の関係者と判断したわけだ。 その判断は、何をもって、だったのか。 雪虎の情報を、彼女は知っていたのだろうか。だとして、なにをどこまで。 だが、ここでいくら考えを巡らせたところで、何も知らない以上、思考は前へ進まない。 …だとすれば、どうしたらいいか。 (―――――一度、相対し、話をしたいものだな。『魔女』と) いずれにせよ、今は。 (…疲れた。眠い) 身体が重い。 背もたれにもたれかかり、目を閉じる。と同時に。 部屋のドアが、しずかに開いた。 タイミングがいいのか、悪いのか。仕方なく、瞼をこじ開ければ。 大河が入ってくるところだった。目が合う。 「お疲れのようですね」 お互い様だ。思ったが、そこは言わない。 大河は、一見、何一つ乱れがなかった。 弱みを見せない男だ。 余計な指摘は意地を張らせることになりかねない。 たとえ気遣いでも、だ。 「…ガリガリくんは」 尋ねれば、大河は部屋の真ん中で立ち止まる。 「部屋まで送りました。鍵のかかる部屋ですから、問題ないでしょう」 鍵。 真っ先に言われた言葉に、なんかズレてるよな、と雪虎は呆れた。なんにせよ、 「ありがとな。助かった」 心から、礼を伝える。この時ばかりは身を起こし、頭を下げた。 「いいえ」 大河は、柔らかい物腰だが、素っ気ない。いつもの態度だ。 だが少し肩から力を抜いて、慣れた手つきでドアにカギをかけ始める。 寝ぼけ眼をこすりながら、その手捌きに見惚れつつ、尋ねた。 「俺、この椅子で寝ていいか」 尋ねたのは形式で、それは、雪虎の中ではもう決定である。しかし。 「何を仰ってるんですか」 対する大河の声は、邪魔なものを押しのけるように冷たい。 「ベッドで寝てください。僕はソファで寝ます」 「へえ…って、はぁっ!?」 思わず、立ち上がる雪虎。 いっきに、目が覚めた。 「そりゃこっちが、何を仰ってやがるんですかって話だろ!」 つい、声を荒げる。 「ここは御曹司の部屋だろ、で、俺は急な来客! 遠慮すんのは客、主人はベッドで寝ろ!」 激高した雪虎に、大河の反応はますます冷えて行った。 「トラさんは僕に借りがあるはずですが」 借り。 雪虎はぽかんとなる。 借りがあるからこそ、ますます、雪虎は床ででも寝るべきで、大河はベッドで休むべきだ。 だが今、大河が言いたいところは、おそらく、…こうだ。 ―――――借りを返したいなら、雪虎がベッドで寝ろ。それでチャラにしてやる。 雪虎は唸った。 「―――――おかしい。その論理は、すごくおかしい」 「おかしいのはトラさんです」 そうかな、とつい説得されるような大河の冷静さに、一瞬納得しそうになったが、寸前で雪虎は踏みとどまった。 とはいえ、大河はこう言ったら、引っ込まない。 「よし」 雪虎は幾分か譲歩して、言った。 「なら、一緒に寝よう」 とたん、大河は眉をひそめる。ものすごく嫌そうだ。思うなり、真顔で言い放った。 「迷惑です」 ―――――本っ気で、可愛くない野郎サマでいらっしゃる。 「…ふん?」 いい加減、疲れていた雪虎に、オトナらしさ・年上らしさはほとんど残っていなかった。 「いいだろう、そっちがその気なら」 机を回りこみ、ずかずか大河に近寄る。 手首を掴めば、大河が厳しい目を上げた。 「…その通り、俺には借りがある」 怯まず見返し、大きく頷いて、雪虎は意地悪く笑う。 「だから、勝手に返させてもらおう」 「…なんですって?」 眉間にしわを寄せた大河の手首を掴んだまま、雪虎は踵を返した。 向かうのは、脱衣所。 「風呂はまだだな、着替えもまだだな、よーしよし、イイ感じだ、全部俺が世話してやる」 ガキ大将のように笑って、呆然とした大河を脱衣所に残し、湯をためるボタンを押した。 「服はどうする? 俺が脱がすか? 自分で脱ぐか?」 勝手に進む話に、さすがに大河は言葉を挟んだ。 「頼んでいません。そんなの、押し売り同然じゃないですか。いりませ」 「そーか、脱がしてほしいか」 棚からバスタオルを取り出し、足元の駕籠に放り込む雪虎。

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