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日誌・105 世話をさせて差し上げます

「ご冗談を」 すぐ、大河は冷静に返した。 雪虎の手を振りほどき、大河は踵を返す。 相手に呑まれてばかりでは、肝心な取引場面で用意されているのは苦い敗北のみだ。 そのまま室内へ戻ろうとする。刹那。 「俺は本気」 言った雪虎が、大河の肩からひょいと上着を脱がしてしまう。 あまりに自然な行動だった。面食らって振り向けば、奪われた上着は、さっさとハンガーにかけられている。 もうため息をつく気にもなれず、観念した大河は雪虎に向き直った。 「…本気、なんですね」 「そう言ってるだろ」 もう決めた。 態度で言って、にやりと笑う雪虎に、大河は達観の目になった。 こうなったら、雪虎は引かない。 「分かりました」 自分から進んで付き合った方が、まだコトは早く終わるだろう。大河は言った。 「なら、世話をさせて差し上げます」 猛烈にひねくれた物言い。 これで怒り出すか、引いてくれたら、良かったのだが。 良くも悪くも、雪虎は大河の言動に慣れていた。 降りた許可に、単純に嬉しそうに笑う。 「やった、そうこなくっちゃな」 大河は失敗を悟る。 そう言えば、誰かの世話をするとなると、雪虎は俄然張り切る男だった。 雪虎は、笑うと小さな子供みたいに幼い表情になる。 眩しいものを見た心地で、大河は目を細めた。いっとき、思考が止まる。 それでも、無意識に言葉が途中までこぼれた。 「…ですが、まず…」  言いさし、言葉を中途半端に止めた大河に、雪虎は不思議そうに首を傾げる。 「まず?」 促され、大河は咳払い。顔だけで室内を振り返った。 「やはり一旦、部屋へ戻ります」 直後、雪虎は、内心絶叫。 戻って、なにすんの? カメラの画像確認とかは勘弁してくれ。 雪虎は素直に、ただ、極力何でもない風に冷静に尋ねる。 「戻ってなにすんだ?」 「部屋に入るなり、トラさんも気付いたでしょうけど」 大河の指先が、天井を指さした。脱衣所には設置されていないが、 「ああ、監視カメラな」 言いたいのはそこだろう。内心、戦々恐々としながら雪虎が頷けば、 「ポーズだけですけどね。ただ、室内で何が起こっているのか、録画はされるので切っておこうかなと」 「ポーズ…」 雪虎は、唖然。つまり。 「日頃、画像確認の時間なんてありませんし」 言われてみれば、確かにその通り、御子柴大河は多忙である。 だったら。 見ないなら、実際に録画する必要性はないのではないだろうか。 内心、雪虎は呆れた。大河は、やるとなったら変に凝る。 なんにせよ、画像確認しないなら、先ほどの一件はバレずに済みそうだ。 雪虎はいっきに、気が楽になった。 「あとで録画した映像確認しないなら、もう放っとけよ。そら、脱がすぞ」 不意にご機嫌になった雪虎を胡乱に見てくる大河に構わず、雪虎は手を伸ばす。 背中から腕を回した。ベストのボタンを外す。 その手を見下ろし、大河は諦めたように言葉を重ねることを止めた。 ベストもハンガーにかければ、大河が手首を差し出すようにしてくる。 促されるまま、雪虎は腕時計を外した。 大河の目が、ふと、腕時計を見下ろして、 「少し、電話をかけてもいいですか」 言ったのを、仕事関連と雪虎は判断、ため息をついた。 「それ、今すぐ必要なことか?」 相変わらずの、ワーカホリックだ。 少し黙った大河は、いいえ、と首を横に振った。 おそらく、そこに入っているのだろう、ちらとハンガーにかかった上着を見遣ったが、取りに行く様子はない。 手首のボタンを外してやりながら、雪虎は尋ねた。 「ドアや窓のカギといい、なんかあったのか」 聞くつもりはなかったが、話題が出たのだ。ついでとばかりに思い切って尋ねれば、 「当の問題は解決しました」 大河は静かに即答。…やはり、何かあったようだ。 手首のボタンを両方外し終えるなり、大河は雪虎に背中を向けた。 雪虎が正面からボタンを外すのが苦手だとよく知っている態度だ。また後ろから、大河のシャツのボタンを外していく。 「元々、この屋敷はセキュリティがしっかりしています。ここまでする必要は、本来ありません」 ゆえに、問題があったとすれば、内部なのだろうと雪虎は考えた。 家の管理をはじめ、家事のために住み込みで働く人間もこの屋敷内には存在する。 なんにしたって、昼間のような誘拐騒ぎが起こったりするのだから、どこに隙があるかは分からない。 おとなしくシャツを脱がされながら、大河は平静に告げた。 「傍から見ても、この部屋、異常でしょう? そろそろ元に戻しますよ」 何があったか、詳細の説明はない。正直、聞きたい話でもなかった。 肝心なのは、大河が精神的に大丈夫だろうかという一点だ。この様子なら、まだ平気の部類に入る。 (こいつ、自分のことでも、たまに他人事って感じてるところあるしな) はたで見ているほうがやきもきする。 「そろそろっていつだよ? ズボラして放っとくのも大概にしとけよ」 元に戻すのが面倒だから、という理由で、この面倒な状況設定をそのままにしていそうな気がして言えば、 「そう言えば、先ほど、窓のカギと仰いましたが」 …話題を変えられた。 どうやら、雪虎の予想は当たりらしい。雪虎は顔をしかめる。 大河は素知らぬ顔で言葉を続けた。 「ベランダ側を開けられたんですか」 「開けたよ、靴出すためにな」 「閉められましたか?」 「悪かったな、全部は閉められなかったよ。三段階までならできたけど」 「十分です」 「なんだあのパズルみたいなの。誰がやった」 つい、文句半分に言えば、 「流さんです」 聞き覚えのある名前が返ってきた。雪虎は声を跳ね上げる。 「画家かよっ。じゃ、まさかカメラも」 はい、という大河の言葉を聞きながら、雪虎は唸った。 なるほど、カメラなり、鍵なりの設置が凝っている理由に合点がいった。 あの男なら、やる。 ―――――日野流、という画家がいる。 芸術に関する腕は一流なのだが、性格面に問題があり、…ただ、さやかとはなぜかウマが合うようだ。 「あいつ今、フランスとか言ってなかったか」 「この間、少しですけど帰国なさったんですよ」 ニュースで見なかったですか、と聞かれたが、雪虎はあまりテレビを見ない。 難しい顔のまま、大河の前へ跪く。 ベルトを外し、籠の中へ。 スラックスのボタンを外しながら、大河に話しかけるともなく言った。 「そう言えば、石鹸は…ないか。あるとしたらボディソープ、だよな」 雪虎は普段、石鹸使いだ。さやかたちが地元に帰ったときは、浴室にいつも新しい石鹸を置いておく。 チャックを下ろし、腰元を寛げ、スラックスを下ろした。 大河の足から抜いて、ハンガーへ。 「さっき、浴室を覗いた時どこにもなかったみたいだけど、身体洗うタオルとかスポンジはないのか?」 雪虎の言葉に、大河は平坦に答えた。 「ええ。いつも手で泡立てています」 「おまえ、そろそろ神経質なのか雑なのかはっきりしろ」 どうでもいいのか、大河は言い返しもしなかった。 下着を下ろし、腰にタオルを巻いてやる間も、大河は大人しい。 そうしていると、本当に人形のようだ。 見上げた顔は無表情だ。 何を考えているのか分からない。 たとえ今、雪虎が彼に何をしても、ただ黙って受け入れるのだろう。いつものように、罰でも受けているような態度で。 ―――――気に食わない。 「…ふん、手で、な」 雪虎は鼻を鳴らし、立ち上がると、大河の背を浴室へ押した。 「分かった、だったら、ソープ嬢の真似事でもしてやるよ。先に入ってろ」

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