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日誌・115 どんなものにも汚されない

「…ぇ」 大河は目を瞬かせた。 ベッドの上。確かに、仰向けで眠る人物が、一人、いる。だが、それは。 (―――――女の人…?) 大河はギョッとした。暗闇で、見間違っているのだろうか。 だが、そこに今いるのは雪虎だ。 彼がどうやって、女性に見えるというのか。 雪虎は、男だ。 大河は、よく知っている。 なにせ何度も彼と身体を重ねた。それなのに。 今ベッドの上にいる相手は、女性にしか見えなかった。 もしこれが現実なら。 この短い間に入れ替わったのか? そう考えた方が自然だろう。 とはいえ。なぜ。どうして。…どうやって? なにより。 雪虎は、どこに。 大河は一瞬、混乱した。そのとき。 ―――――うぉん… 獣のような呻きが室内に響き、大気を揺らす。 影の煙のようにしか見えなかったそれに、いくつかの口と眼球が垣間見えた。刹那。 「うっせぇ」 不意に、まっすぐ放たれたそれは、雪虎の声だったと思う。 不機嫌極まる唸りに似た声が、放たれるなり。 不吉な空気が、一瞬で打ち払われた。 強烈な光によって影が蒸発するかのように。 さぁ、とさわやかな風が吹いた心地に、知らず、大河の身体から緊張が抜ける。 感覚としては神秘的な心地であった、のだが。 目に映った光景はと言えば。 ぺちん、と真正面から顔面に平手打ちでも食らったように、影が仰け反った。 とたん、飼い主に叱られた小動物のように、尻の座りが悪そうな様子でもぞもぞ悶えだす。 (…は?) 呆気にとられる大河の視線の先で、無造作に、雪虎の手が頭上へ伸びた。 悶え、もがく影の塊を、その手がわっしと掴んだ。 子猫の首根っこをひっ掴むように。 それを、あろうことか、雪虎は引き寄せた。 ベッドの上、くるりと横向きになり、小動物でも抱くように、抱え込んでしまう。 「しー…。寝とけよ、もう」 その黒い塊は、しばらくじたばたもがき。やがて。 どうしようもなかった、のだろう。 敗北しきった気配が濃密になる。 やがて、徐々に姿を薄れさせていった。 完全に消えた時には、大河は全身に、冷たい汗をかいていることに気付く。 とはいえ、終わったのだ、と大きく、息を吐きだした。複雑な気分で。 なんにしたって―――――もう、室内に嫌な気配はない。 この事態をあとでさやかに話したところ、月杜の祟りをよく知る彼女に、真面目な顔で、案じられた。 ―――――普通なら、昏倒したきり、それで人生の終わりよ。でも、御子柴も特殊な血統だから…。 だから、耐えられた。そう言いたかったのだろう。 だがこの時は、自分のことより、雪虎の身が心配だった。 雪虎は、実に無造作にアレを抱え込んだ。 その認識は、不思議と彼への恐怖にはつながらない。ただ、猛烈な焦りが生まれた。 彼の身体に異常は出ていないだろうか。 命に、問題はないだろうか。 早足に近寄り、雪虎の顔を覗き込む。 あどけない寝顔が見えた。息を、している。…穏やかな表情で。 たちまち、大河の全身から力が抜けた。 しかし、先ほどの現象は何だったのか。 あの、祟りと思しき塊が、浮かんでいた…雪虎からこぼれ落ちたような理由も不明だが、なにより。 雪虎が、女性に見えた理由は。いったい。 (…そう言えば) かつて、月杜の地に生じた祟りを鎮めたのは、誰からも愛された『娘』であった、と話に聞いている。 少し考え、大河はそうっと雪虎の肩を押した。 ふっと横向きだった身体が傾き、雪虎はまた仰向けになる。起きる気配はない。 大河は、ベッドに乗り上げた。 雪虎の胸元を見下ろす。 思い切って、手を伸ばした。 ボタンを外していく。ひとつ、ひとつ、丁寧に。 胸元を寛げる。左右に押し開いた。現れたのは、男の、平坦な胸だ。だが。 大河の唇から、―――――熱い、息がこぼれた。 ふ、と肌に掌を押し当てる。輪郭を、つぅと指先で辿った。 穏やかだった雪虎の寝息が、一瞬だけ、乱れる。何かを避けようとするように、顔だけ横を向いてしまった。 それでもまだ、起きない。 その横顔を、大河はなんだかはじめて見る心地で見下ろした。 ―――――今まで、大河にとって、雪虎という人物は。 強い、存在だった。 はじまりが、はじまりだったせいか。 …支配されることは心地よく、服従の感覚は新鮮で、そうである以上は、従うことに、否やはなかった。 雪虎の男性的な印象があまりに強く、服従以外を考えたことはない。 だが、今日。 風呂場での出来事を思い出し、大河は顔に熱が集まるのを覚える。 あのような、やり方を選んだのは、雪虎の中でどんな気紛れが働いたからだろうか。 雪虎は、結構、本能的な人間だ。 よくよく考えての行動では、ないのだろうが。 …おそらくは、そのせいだろう。 ―――――大河の中で、雪虎への認識が、幾分か変わってしまった。 支配される、その方向性が変わった、と言ったほうがいいだろうか。 頭から丸呑みにされて何もかも分からなくなるような感覚が、今まで雪虎から与えられていたものならば。 今の感覚は。 どこかに風穴が開いて、物足りなかった胸の内が、あっという間に満たされた。…そういった感覚だ。 問答無用に満たされて。 何もかもが足りていて。 はっきりした理由もないのに、大河は自然と思った。 ああ―――――幸せだ。 ずっと、雪虎に奪われる心地が、あまりに強烈だったから、だろうか。 今まで考えたことは、一度もなかった。 このヒトを。 ―――――愛しても、いいのだと。 それをはっきり認識したのは、…たった今だ。 雪虎が、女性に見えてしまった時。 それともあれは、大河の願望だったのか。 だが、大河は一度も思ったことはない。 雪虎が女であったら、などとは。 雪虎は強い。男として魅力的だ。間違っても、女性のようではない。それなのに。 強烈に、思った。 愛したい、と。 その気持ちだけで、今の大河は完璧に満ちていた。 もちろん、分かっている。 (手を伸ばさない方が、利口、なんだろう) それは、骨身にしみて知っていた。 なにより、雪虎は月杜だ。月杜の、モノだ。 彼の背後には―――――月杜秀がいる。 ともすると。 (あの方は、味わったことが、あるのかもしれない) 雪虎を抱いたことが、あるのかもしれない。もしくは。 あの、―――――悪魔憑き。 だが。 そう、思っても。 不思議と、大河の中の幸福は、崩れたりしなかった。 それでも別に構わない。 雪虎が受け入れたのなら、それでいい。 ただ。 雪虎が望まないことなら。 大河は、静かな表情で、ふ、と雪虎から手を放した。 その手を縛めるように強く握り締め、拳を作った、刹那。 「…御曹司…?」 呼ぶ声に、息を呑む。雪虎の顔を見遣った。とたん。 仰向けになり、うっすらと開かれた雪虎の目が見える。 眠たげにゆっくり瞬いたそれが、大河の姿を映していた。…それを認識するなり。 大河の心が、不思議と落ち着いた。 胸のざわめきが、潮が引くように引いていく。 「眠れないのか…?」 気遣うような声。 すぐにも安心させたかったが、うっかり返事をするのは躊躇われた。 大河の声で、眠たげな雪虎を、これ以上まどろみから引き上げるのは気の毒だと思ったからだ。 黙り込んだ大河に、雪虎はうつらうつらと、舌足らずに言葉を続けた。 「だからってまた、仕事とか、やめとけよ、ちょっとは休んどけよ…」 雪虎の腕が伸びてくる。 大河の頬に触れた。 子供をなだめるような動きで撫でてくるのがくすぐったくて、大河はやんわり手を握り締めて止める。 その行動の何が面白かったのか、なぜか雪虎は嬉しそうに微笑んで。 言った。 「もう、一緒に、眠ろう」 穏やかに誘った雪虎の瞼が、とろり、落ちて。 ―――――再び、深い寝息が大河の耳に届いた。 そのことに、なぜか深い安堵を覚える。 ここに、雪虎がいる。 たったそれだけのことに泣きそうな気分になりながら、大河は頬に触れた雪虎の掌に口付けた。 身を屈め、雪虎の額に額を合わせる。 祈るように、目を閉じた。 (ああ、そうか) 胸の奥に温かく満ちてきたものに、ようやく大河は得心がいった。 これこそ、ずっと、大河が待ち焦がれていた、輝かしさだ。 大河の中にも、あったのだ。 ―――――どんなものにも汚されない、うつくしいもの。

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