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日誌・116 音を立ててキス

× × × 夏の早朝。 日の出は早くなっているはずだが、まだ暗い時刻。 人のまばらな駅の構内。 その二人は、外の駐車場側から入ってきた。歩きながら、一方の青年が穏やかに言う。 「まだ少し早いですね」 スマホではなく、腕時計を見下ろした彼に、周囲の視線が自然に集まってくる。 整った容姿もさることながら、やたら優雅で、華がある雰囲気の男だ。 妙に目に付いた。 「なら丁度いいや」 隣を行く男は、どこか粗野だが、きちんとした家庭でちゃんとした教育を受けた、育ちの良い印象を持っている。 悪ぶってはいるが、礼儀正しい。そんな雰囲気だ。 ただ、彼は帽子を目深に被っているため、どんな容姿かまでは分からない。 「朝飯代わりに、サンドイッチでも買ってくる」 「すみません」 申し訳なさそうに、青年が帽子の男にわずかに頭を下げた。 「冷蔵庫に食材の一つでも入れておけばよかったんですが」 「今度冷蔵庫を見た時、中がビールで埋まってたら」 帽子の男が、低い声で続ける。 「全部のビールの中身捨てたあとに、一晩で食いきれない量のメシつくって、代わりに突っ込んどくぞ」 「ありがとうございます」 嬉しそうに礼を言う青年。 その笑顔は意外と幼い。 大人びているのに、可愛い。 チラチラ見ていた女性の何人かが、顔を赤くした。 とたん、唇をへの字にして黙り込む隣の男。苦々しい態度だ。 「ビール好きなら、捨てられて礼はおかしいだろ」 「いえ、好きなわけでは」 その答えに、帽子の男は足を止めた。 少し先へ進んだ青年も、足を止め、振り向く。 「じゃ、なんで入れてたんだ」 改めて、尋ねる男。なんでもなさそうに、青年。 「空っぽなのも味気ないな、と」 男の態度に、青年は初めて気づいたように声を上げる。 「…って、ビール捨てるって言うのは、まさか脅しなんですか?」 「…ビール好きへの嫌がらせ以外の何だってんだ」 なにやらどんどん不機嫌になっていく帽子の男。 自分の顔の横まで右手を持ち上げ、質問、と言った感じで、青年。 「ちなみに。僕が言ったお礼は、ご飯を入れておいてくれるっていうところに対してです。トラさんはなんでそうしようと思ったんですか?」 「空っぽなのは味気ないだろ」 不貞腐れた声で答える男。 「それにお前はそんなにたくさん一度には食べられないから嫌がらせになる…ぁ」 言いさした男は、途中で何かに気付いた様子で黙り込んだ。 「…もしかして、日持ちするメニューとか考えてましたか?」 尋ねた青年の口元が、今度は別の意味で緩んだ。 「なんと言うか、方向性がすごく間違っていて…かわい、」 「っどーせ、俺は頭悪いよっ」 皆まで言わせず、帽子の男は踵を返した。 「いえ優しいんですよ、あ、トラさん、どちらへ」 「コンビニ! メシ買ってくる。おまえ、もう帰れば?」 「まさか。見送りますよ」 「ああ、そうかよ、一人で待てるよな?」 改札口近くに設置されたベンチを指さし、男は構内で開店している店に入る。 見送って、青年は楽しそうな表情で、ベンチ近くの自動販売機の前に立った。 立ち居振る舞いが、ひどく絵になる。 彼はコーヒーを選択、二本購入。 取り上げ、ベンチへ向かう。 隅の席を選択し、身軽に腰かけた。 ―――――今なら、彼、一人だ。 大学生くらいだろう、二人連れの女性二人が、声をかけようかと真剣に相談し合っているのに気付いたか、ふ、と彼が顔を上げた。 目が合う。 とたん、嫌そうな態度ならおとなしく立ち去ろうと、彼女たちは思った。 なにせ青年の品の良さは、近寄りがたくもある。というのに。 青年は、にこり、微笑んだ。 とびきり、優しげに。 目を見合わせた彼女たちが、誘われるように、一歩踏み出しかけた時。 急いで出てきたらしい、袋を下げた連れの男が青年の方へ足早に戻ってくる。 何かを探す態度で少し顔を巡らせ、すぐに見つけた青年の方へ足を向けた。 その時点で、彼女たちは近づく気勢をかなり削がれた。 戻ってきた男に、青年が何か言った。 会話の内容までは分からない。だが、その言葉に男が顔を上げた。彼女たちを見遣る。 刹那。 「ひ…っ」 見えた、男の面立ち。 その、あまりの醜悪さに、彼女たちは小さな悲鳴を上げた。 蒼白になり、身を寄せ合うようにして、駅から出て行く。 その後ろ姿を見送って。 帽子の男―――――雪虎は、苦い顔になる。不貞腐れた態度で、青年―――――大河の隣にどかっと座った。 「お前、計算して、やったな?」 「なんの話です?」 何を言っているのか分からない、そんな大河の態度に、悪かったな、と言いさした雪虎は、寸前で思いとどまる。 「誤魔化すな」 ふ、と大河は息だけで笑った。 「騙されてくれるかと」 「ねーよ」 舌打ちした雪虎に、大河は缶コーヒーを差し出す。 「ミルク入り、無糖でよかったですよね」 「お、ありがと」 大河の手元に残ったブラックを見遣り、缶コーヒーを包む指に視線を向け、雪虎は首を傾げた。 「その結婚指輪は、周りに見えないのかね」 「手元はあんまり、視界に入らないみたいですね」 缶コーヒーを開ける寸前、雪虎は周囲をざっと見渡す。 そこはかとなく注目を集めるのは、大河といればいつものことだ。 だが、今日はなんとなく、雰囲気が違った。 いや、雰囲気が違うのは…。 大河を横目にし、雪虎は缶コーヒーを袋に突っ込んだ。 不思議そうな顔になる大河を促し、立ち上がる。 「忘れ物した。車まで戻る。鍵くれ」 雪虎は踵を返し、さっさと元来た道を戻りだした。 「いきなり、どうしたんです?」 鍵を渡すより、すぐさま、大河は雪虎についてくるコトを選択。 …これは本格的に、おかしい。 確信し、すぐ隣に並んだ大河を見遣り、雪虎はやりにくそうな顔になった。 「どうしたんだ、はこっちの台詞だ。朝から―――――なんだ?」 この数年来、ずっと刺々しかった大河の態度が、嘘のように丸くなっている。 それこそ、初対面の頃―――――身体の関係を持つ前に戻ったかのように。 その上、ここのところは、代替わり関連の悶着でぎすぎすしていた雰囲気も、どこにもない。 今朝の大河は、へんに素直で、落ち着いていた。 大河の変化に影響されるように、周囲が向けてくる視線もまた、以前のような粘着質なものとはまた違ってきている。 いい変化、と言えるのだろうが。 「昨夜、何かあったのか」 戸惑うほど激しい変化に、雪虎は弱った気分で尋ねた。 「…僕は何か変ですか?」 困った態度で微笑む大河から目を逸らし、すぐに見えてきた大河の車へ顎をしゃくる。 「まあいいや。…早く乗れよ」 「忘れ物をしたんですよね?」 「してない。俺のことは見送らなくていい。俺が御曹司を見送る」 人込みの中に、大河を一人残して立ち去るのは、どうも不安が残った。 「…分かりました」 ここでも大河は素直に頷き、すぐ車に乗り込む。 反発が来ないことに、なんだかムズムズしながら、雪虎はエンジンのかかった車を覗き込んだ。 「さやかや、ご両親によろしく。子供たちにも。あと、ガリガリくんも頼んだ」 頼みすぎなことは、重々承知だ。雪虎は付け加える。 「もし扱い兼ねたら、ガリガリくんはこっちに寄越してくれ」 「ああ、彼に関しては、…いいですよ、面倒見ます。なかなか面白いことになりそうなので」 ちょっとした嫌な予感に、雪虎が何の話かを聞こうとした刹那。 「あ、トラさん、やっぱり、忘れ物してますよ」 機先を制するように、大河。 「は? んなわけないだろ。俺、今は荷物をそんなに持ってないぞ」 「ありますよ。ほら、これ、そうじゃないですか」 助手席側から何かを取り出すようにする大河の動きを追って、窓から車の中へ雪虎は顔を突っ込んだ。 「いったい、なに…」 言いさした、雪虎の頬に、大河が。 ―――――音を立てて、キス。 動きを止めた雪虎に、にこり、笑って。その肩を押し、雪虎の顔を車の外へ出す。 「今回は、ありがとうございました。それじゃあ、また」 去り際の挨拶は手短に、大河はゆっくり車を前進させ、途中、手を振った。 反射でふり返した雪虎に笑って、大河の車は駐車場から出て行く。 それを呆然と見送った後、頬を押さえ、何かやられた気分で雪虎は大きくため息をついた。 その時になって思い出す。 大学生時代に、大河がなんと呼ばれていたのか。 そう、確か。 (王子様、だ)

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