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日誌・124 首輪

× × × 中に入れば、恭也の背後で、扉が閉まった。 振り向きもせず、フロアの中ほどまで無造作に進み、恭也は足を止める。 この男の動きは、洗練された気品とは無縁だが、それでもひどく優雅だ。 野生の獣めいた媚のない自由さが、それを際立たせる。 身を投げ出すように足を止めた彼に、左右から人影が近寄ってきた。どちらも男だ。 お仕着せのように、タキシードを着ている。髪は短く刈り上げ、顔の上半分を包帯で覆っていた。年齢不詳。 恭也が視線をそれぞれに向けるなり、 「ご安心くださいな」 どこともしれない頭上から、声が降ってくる。 毒が混ぜられた蜂蜜みたいな声だ。ねっとりと鼓膜に張り付いてくる。 「彼らには、失うものなど何もありませんから」 つまり。 ―――――恭也の中の悪魔の影響は受けない。 そういうことだ。 ただそのことは、恭也の中に、安心も不安も掻き立てない。 相手の身の上に思いを馳せるほどの興味もわかなかった。 この程度の相手、世の中何人だっている。恭也は肩を竦めた。 「では、彼らが首輪をつけてくれるんですね」 「つけられてくださいますよね?」 「はっは」 恭也は莫迦にしきった声で笑う。 「そうでもしなきゃ、あんたらぼくとまともに話もできないじゃない。何が魔女―――――旧き知恵を継承する偉大なる賢者だろうね?」 「だとしても」 また別の、冷ややかな女の声が、頭上から降ってきた。 「悪魔の力を制御するそれを発明したのは、我々ですわ」 「制御!」 ばかにしきった声で、恭也。 「たった一時間ぽっちで自慢げに言えたものだね!」 冷え切った女の声が、悔し気に言葉を継いだ。 「それは…あなたが協力的でないから…っ」 「へえ、また実験体にでもなれって言うの? よく正々堂々と言えるよね」 あまりに挑発的な言動に、不穏な沈黙が落ちる。 気にした様子もなく、胸がすいたと言った笑みを、恭也は浮かべた。 と見えた刹那。 ―――――いっきに、飽きた、と言った表情になる。 「ま、いいよ。やれば?」 もっとごねるかと思いきや、恭也は拍子抜けするほど簡単に、素直に喉を晒した。 否定したかと思えば、肯定する。 拒絶したかと思えば、受け容れる。 風見恭也が手懐けられない性格であることは重々承知だが、この男には皆が手を焼いていた。その分、当然のごとく。 ―――――恨まれている。 獣の皮で作られた首輪が、恭しくその喉に装着された。 「ふぅん。今回は、金属じゃないんだね」 どうでもよさそうに、恭也。 彼から、タキシードの男二人がゆっくり後退し、距離を取る。 とたん、場に満ちていた緊張が、半分消えた。これでしばらくは、恭也が周囲に破滅をもたらすその影響は消える。 女が何人か、姿を見せた。 「まさか、今回彼がくるなんて、聞いていません」 階段上で不満げに唇を尖らせる夫人がいるかと思えば、 「良いではありませんか、こういった協力者は貴重です」 上品に微笑む小さなおばあさんが、端っこの椅子にちょこんと座っている。 「せっかくです、試せるものは試してみようではありませんか。彼で」 交わされる会話はすべてに、血の匂いがした。 それらいっさいが、恭也にとっては懐かしいような子守唄だ。 本来、ぞっとするはずのソレに。 うっとりと、恭也は碧眼を閉じようとして―――――刹那、目を瞠った。 「…ぇ…?」 その喉から、珍しく、頼りない声が漏れる。 広間を見学するように、上階から姿を見せた女たち。 その中に。 「―――――グレース」 怯えたように身を竦めた、やせっぽちだが長身の娘の姿を認めたからだ。 恭也に名を呼ばれた、それだけで、ひっ、と喉を鳴らし、彼女はその場に座り込む。腰を抜かしたようだ。 間違いない。 この臆病さは、グレース本人だ。彼女の高慢な姉、イザベラでは、演技でも、このような真似は出来っこない。 では、―――――どの程度なら、可能か? 稲妻のように、恭也の全身を理解が貫いた。 踵を返す。 扉へ向かって足早に進んだ。 魔女たちのざわめきなど、知ったことではない。 閉ざされた扉の取っ手を握る。だが、開かない。 当然だ。ここは魔女たちの領域。 彼女たちの了解なしでは、客であり、同時に獲物である恭也は出て行くことなどできはしない。 刹那。 開かない扉を、恭也は全力で殴りつけた。次いで、 「っ、グレースっ!!!」 本気で吠える。炎を吐くように。満身を使って。 とうとう、臆病な娘は、殴られたようにその場で昏倒。 まるで、間近でライオンに吠え掛かられた兎だ。 構わず、恭也は言葉を続けた。 「このっ、役立たずが! イザベラはどこに…いや、いったい、何をしているっ!!」 鋭い矢を思わせる恭也の声を打ち払うように、冷え切った性別不明の声が広間に落ちる。 「身の程を弁えなさい、悪魔の子」 だが、居合わせた誰が放った声なのか、分からない。女たちも戸惑ったように顔を見合わせた。 それでいて、絶対者が現れたかのように、次々頭を垂れる。対して。 恭也は、いっさいを切り捨てるような、硬い刃めいた沈黙をまとった。碧眼が、冷たい炎めいた印象で、揺らぐ。 氷のように厳粛な声は、構わず続いた。 「ことのはじめに、悪魔を殺してくれと我らに懇願したのは、そなたである」 その言葉に応じるように、天井から、何かが落ちる。複数。 影のように。蜘蛛のように。音もなく。 それらの四肢は、不自然な骨格をしていながら、人間のもののようだった。 そして、それぞれの手の部分に。 …武器が、握られていた。憎悪もなく。殺意もなく。それらがいっせいに、中心の恭也を指し示す。にもかかわらず。 周囲が全く見えていない態度で、恭也。 「懐かしいこと言うね? そう、昔、ぼくは願った。ぼくの中の悪魔を殺してくれって。ただし」 彼の声から、次第に笑みが抜けていく。 「ぼく自身を殺してくれなんて、一度も言っていない」 やがて、何人かが気付き始めた。恭也の喉元で起きている異常に。 気のせいだろうか? …首輪が。 腐食しはじめていた。焼け焦げ、炭になるように。 「けどあんたらは、ぼくを玩具にしただけだった。殺せなかった。ぼくも、ぼくの中の悪魔も…―――――本当に、役立たず」 遠い日、恭也が痛切に抱いた願い。 普通に街を歩いて、普通に話をして。 ごく当たり前の、普通の時間を、…過ごしたい。 それを、なんの意識もせず、叶えたのは―――――世界で、たった一人だけ。 「ねえ、ぼくが何の手も打ってないと思うの」 辛抱強く、恭也は言葉を重ねる。 不要な暴力を、そのひとが嫌うと知っているからだ。 「世界中に散らばる魔女の工房。そのうちの、いくつか…ああ、数は忘れたけどさ。時間内にぼくが無事戻ったって合図を送らなかったら、潰す手筈になってるの」 とたん、魔女の内、何人かが強い反応を示した。 「…黒百合ね?」 彼女たちは顔を見合わせる。 そう言えば、恭也がいるのに、黒百合の姿を見ないのはおかしい。 ざわめき始めた女たちの様子に、もう一押しとばかりに、 「扉を開けろ」 恭也は、感情がすっかり抜けた声で、命じた。 「これは、あんたらのためでもある」 呟くように言う恭也は隙だらけのように見える。 だが、周囲に配置された人間『らしきモノ』は、攻めあぐねていた。そこへ、 「イザベラが問題児なのは皆知ってるよね? 彼女が今、誰と一緒にいると思う?」 また天井から、何かが恭也の上へ。 ―――――降った。 刹那。 ―――――ドッ! 広間の床が抉れる。 叩きつけられた恭也の頭部を中心に、大理石がひび割れた。 そこに、隕石でも落ちたように、すり鉢状に。 「あら」 その様子を上階から覗き込んだ魔女の一人が、弾んだ声を上げる。 「潰れたかしら」 寸前で、頭上を見上げたか、恭也は仰向けに倒れている。 その頭部を、原始的にも棍棒で叩きつけた巨漢が、棍棒を振り下ろした格好のまま、見下ろした。直後。 「…あーぁ…」 心底、面倒そうな、恭也の声があがる。刹那。 恭也の喉に巻き付けられていた、革の首輪が―――――瞬く間に炭化した。 目ざとくそれを見つけた女の一人が、悲鳴を上げる。 「溶けたっ、首輪が―――――…!」 「嘘でしょう、あんな強力な退魔の道具が…何の冗談よ!」 連鎖する悲鳴。 増幅する混乱。 「面倒くさいなあ…ああ、いいや、もういいや。工房どころじゃない、もうぜんぶ」 恭也の手が上がった。 人形めいた、意志のない動きで。 だが―――――確かな破壊の予兆をみなぎらせて。 「つぶす」

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