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日誌・125 真相・1
× × ×
周囲の光景が二重に見える。
違和感に、雪虎は顔をしかめた。
…さて。今見えている光景をどう言えばいいのか。
別々のフィルムの映画を二本、壁に映し出しているような感じだ。
ひとつは、今現在、雪虎の目の前で起こっていることが見えた。
即ち。
オリビアとイザベラ、魔女同士の言い争いだ。
現在は、毛を逆立てた猫同士のにらみ合い状態。しかも、高級な猫。
だが、放っておけば、野良猫真っ青の取っ組み合いが始まりそうな雰囲気だ。
(…仲が悪そうだな)
ただ、彼女たちの姿ははっきりしていても、声は遠くて聞こえにくい。
良く耳に届く声は。
(こっち、か)
ごく自然に、雪虎はよく聞こえる声に耳を澄ませた。
―――――破棄とか解消とかいう話じゃない。式の日程を延期しようって言ってるんだ。
男の声だ。困惑している。
昔、少しだけ聞いたことがある声。
これは。
―――――義兄さんって、呼ぶことになるんですよね。
はにかんだような、幸せそうな表情で美鶴を見て、そう言っていた青年のものだ。
オリビアたちの姿に重なって見えにくいが、今、目の前に見える彼は、今にも去ろうとしている美鶴の肩に、引き留めるように手を置いた。
懸命に、言葉を重ねる。
―――――父さんと母さんが、もう少しきちんと考えたらって言うんだ。できれば両親にはちゃんと認めてもらいたい。
彼と視線を合わせないまま、美鶴。
―――――わたし、気に入られなかったのね。
―――――そうじゃない。
声だけは、はっきりと聴こえる。
これが幻聴か妄想か、…それとも真実かは分からないけれど。
少なくとも、雪虎自身の記憶にはない光景と会話だ。
もっとよく聞くために、雪虎は黙って目を閉じた。
…正直なところ。
オリビアが先ほど、しっかりしろ、と声をかけてくれなければ、危なかったかもしれない。
この光景―――――美鶴のものと思しき記憶の渦に、雪虎は捕らわれてしまったのではないか。そんな予感があった。
今こうして他人事として、見聞きできるのは。
記憶の渦に呑まれそうになった刹那、踏みとどまったからだ。
…彼女の記憶らしきものが垣間見えるこの状況が、どういう仕組みになっているのかは知らない。
イザベラが見せる幻想だろうか。
これが、真実かどうかもはっきりしない。
が、ひとつだけ、どうしようもなく明確な事実があった。
―――――ここに、美鶴はいない。皮肉にも、その不在だけは、確かな真実だった。
…ともすると、まだ世界のどこかには残っているかもしれない。
美鶴の記憶。
体験。
…吐きだした、感情は。―――――それでも。
それらが一体となって、美鶴という一つの像を結ぶことは、もうないのだ。
とっくの昔に、すべてはバラバラのピースになって散らばって―――――…。
雪虎は、細く長く、息を吐きだした。
今、この時ほど、強く実感したことはないかもしれない。
いないのだ。
八坂美鶴という、人間は。
もう世界から、完全に消えてしまった。
この時の感覚を何と言おうか。
喪失感。
寂寥感。
―――――どう暴れたって、手も足も出ない不変の現実に、打ちのめされ、心底から敗北を舐めた気分だ。…ただ。
こうやって、思い知る、ことで。
雪虎が、影のように引きずっていた女々しさが、逆に思い切り吹き飛ばされた気がする。
そうだ、もう美鶴はいない。彼女には、何もしてやれない。
雪虎がずっと彼女の死に捕らわれているのは、…本当に、無駄なことだ。美
鶴のためなどではなく、単なる自己満足に過ぎない。
しかも、自身を自身で打ちのめすための道具にしてきた。
なんて無様だ。
(俺は本当にちっぽけだな)
雪虎は自嘲した。
思い知ることは、本当に、…痛い、けれど。
そろそろ、受け容れねばならないのだろう。
(しかし、破棄じゃなく、…延期だって?)
美鶴は婚約破棄を一方的に告げられたから、自殺をした。
父はそう言った。
もちろん、彼の言葉を丸呑みにはしていなかったが。
そこに、何かきっかけがあったろうことは、間違いがなかった。ただ。
美鶴の婚約者に、正確には何があったのか、確認することまでは、雪虎はしていない。
美鶴の自殺は、当時、そんな力も考えも、雪虎に抱かせないほど彼を打ちのめしていた。
閉じた眼裏に、自分の経験のような画像が…記憶が、浮かび上がってくる。
―――――なら、わたしの家族のせい?
美鶴の言葉は、遠回しに、雪虎のせいか、と言っている。
そう言えば、一度、家族全員が揃って、食事をしたことがあった。
もしかするとこのやり取りは、…これが真実、過去に起きたことならば、あのあとの話なのだろうか。
果たして、青年は首を横に振った。
―――――違う。
…そう、彼はとことん善人だった。
雪虎は、自分が初見の相手にどういう印象を抱かせるか知っていたから、家族全員の顔合わせの数日前に、彼を訪ねている。
こういう男がめでたい席に、同席してもいいのか、と聞きに行ったのだ。
当然、美鶴も一緒に。
すると、彼はすべてを了解し、親にも説明しておきます、と言って、同席を望んでくれた。
そのとき、美鶴は手を叩いて喜んだが―――――本心は違っていただろう。
昔から、彼女が雪虎の醜さを疎んじていたことは、兄である以上、よく知っていた。
美鶴が雪虎に同席を願ったのは、こんな醜い兄でも兄だから大切にしている、という外へのアピールのためだ。
実の兄をつまはじきにしては、あとで悪く言われる。
昔から、そういう計算は細かな娘だった。
美鶴が本当に望んでいたのは、婚約者が雪虎の同席をやんわり断ってくれることだ。
それに反して、彼は雪虎を肯定した。
そして、雪虎から見ても、家族同士の食事会は、和やかに済んだと思う。
だがきっと、それも美鶴にとっては気に食わなかったに違いなかった。
―――――もういい。
拗ねたように言ったのは、それらの鬱憤のせいだったのか。
―――――美鶴。
―――――ご両親がわたしを認められないって言うなら、これ以上無理。婚約破棄しよう。
(…は?)
呆気にとられた雪虎をよそに、美鶴は青年の手を振り払った。駆け出す。
彼から遠ざかりながら、美鶴は少し後ろを窺った。―――――彼は追ってこなかった。
雪虎は唖然となる。
(いや…、待て。美鶴は一方的に婚約破棄を申し渡されたんじゃなかったのか? これが、事実だとしたら)
言ったのは、父親だ。
だが、彼とてどこまで真相を知っていたのかは分からない。
…なんだ、この状況は。
当惑に、雪虎の思考が鈍くなる。
―――――それから数日。
婚約者からは、なんの音沙汰もなかった。
だんだんと不安に苛まれ始めた美鶴は、とうとう、婚約破棄の話を父親に告げる。
この頃から新しい男の影があり、家のことがおろそかになっていた母には、相談しかねたのだろう。端から、雪虎が論外だったのは分かるが、
(相手が悪い)
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