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日誌・138 誘惑して
「その理由」
試すように、唆すように、恭也は言った。
「知りたいならさ」
雪虎から、額を放す。
間近から視線を合わせ、からかうように微笑んだ。
「ぼくを誘惑してよ」
その言葉を訊くなり。
雪虎は、恭也の向こうに見えるベッドを意識した。
―――――つまりは、そういうことだろうが。
雪虎の視界の端で、放置されたままの誓約のコインが光って見えた。
この部屋を提供した魔女たちが、雪虎と恭也を監視するにせよ、守るにせよ。
彼女らが起こすそれらの行動の結果、…今現在、この部屋を覗き見る目がある、そういうことだとすれば。
誰の目があるか分からないこんな場所で、そんな行為に至る気にはなれない。
恭也とて、その可能性は承知のはずだ。
ならば、今言ったことは、冗談だろうか。
本音を読み切れないまま、
「悪いが」
雪虎は恭也の胸を押す。
「ここでそんな気分にはなれない」
第一、恭也は本当にわかるのだろうか? 月杜が、代々その影響力を保持し続けた理由など。
ただ、恭也の言葉に、なるほど、とは思う。
雪虎にとって、月杜家の在り様は、産まれた時からそうだったから、なんの疑問にも思わなかったが、確かに。
何か、不自然だ。
一時の曇りもなく、続く繁栄などあるだろうか? 盛者必衰が世の常。
努力が届かない、天の理とも言える。
それを月杜は、覆しているわけだ。
それとも、恭也に、思考を操られているだけだろうか。
どちらにせよ。
(恭也の視点の方が、核心に近い、…気が、する)
「トラさんはそれでいいよ」
雪虎の、押しやる力は弱かったわけではないのに、当然のように、恭也の身体はびくともしない。余裕で微笑んだ。
そして、一度、音を立てて雪虎の頬にキス。
雪虎が面食らった、その隙に。
「ぼくがその気になれるから」
(…ん?)
恭也の言葉に、雪虎が内心、首を傾げるなり。雪虎の身を襲う―――――浮遊感。
「な」
恭也に横抱きにされている―――――つまりは姫抱っこの体勢だ。
気付くなり、一瞬雪虎の思考に空白が生じた。
我に返ると同時に、きれいにメイキングされたベッドの上に放り出されている。
落ちる感覚に、いっとき、身体が強張って、ぎゅっと目を閉じた。すぐ、目を開く。そのときには。
恭也が、身体の上に、覆いかぶさっていた。
いつも鮮やかな紺碧の瞳が、夢見るようにうっとりしているのに、気付くなり。
(あ)
―――――察した。つまりは。恭也の言った、「誘惑して」は。
(…コッチの意味でか!)
忘れていた。
忘れていたが、そう言えば。
恭也は雪虎を、男の欲望の対象としても、望んでいるのだ。
どういう顔をすればいいのか分からない。
咄嗟に顔を背けるが、頬に突き刺さるような恭也の視線を感じて、…逃げきれそうもないことを悟る。
「ね、トラさん」
器用に、雪虎の足の間に陣取った恭也の腰が、雪虎の腰を押し上げるようにじんわりとおしつけられた。
「ほら、して」
横を向いた雪虎の耳に、息を吹き込むように、恭也は囁く。
「ゆうわく」
「…っ」
逃げを打つ雪虎の身体を許さず、押さえつけ、恭也は痛いくらいに腰を押し付けてきた。
しれっとした顔で、既に勃っているのに驚く以前に、
(潰す、つもりか…っ)
身体を押し付けてくる強さに呻く。
恭也の態度は甘えるようで、嬲るようでもあった。
つまりは一方的で、雪虎の状態を考えていない。
「…っ待て」
痛みに眉を寄せ、それでも周囲が気になって、雪虎は視線を泳がせる。
「この部屋、監視は」
「あは、そんなの」
何がおかしいのか、恭也は笑って、告げた。
「全部、無駄」
この反応。監視があるのは確かということか。だが、
「いや無駄ってなんだ」
「壊れてるよ。トラさんがいるから。仕掛けてくる端から、ぜんぶ」
意地の悪い態度で、恭也は楽し気に笑った。
「俺がいるからって、どういう…っ、」
言いさした雪虎の息が詰まる。
恭也が、雪虎の身体に、胸までぴったり合わせ、体重のほとんどを預けてきたからだ。
苦しい。
だが、ろくに声も出せないから抗議もしかねる。
確信犯だろう、恭也は、雪虎の顎を掴んだ。
完全に、逃げられないように、して。
雪虎の耳元で囁く。
「ちょっと、味見させて」
たまりかねた様な、切羽詰まった声が聴こえるなり、
「ん」
唇を塞がれた。もう一方の手で、額を押さえられる。舌が押し入ってきた。
たまらず、仰け反るが、ろくに動けない。
睦み合う、というよりも、拘束され、一方的に嬲られているようだ。
口内で行われる舌の蹂躙は、それほど冷酷で容赦がなかった。
溺れる者のように、雪虎の手が、がむしゃらに恭也を押しのけようと、して。
寸前、止まった。
こういう場合の、恭也に対する抵抗は、彼の中に、さらなる支配欲を生む気がした。
…そう、なれば。
ただ、口付けるだけで、これほど暴力の気配を感じさせるのだ。
しかも今回、食べられる側は、雪虎。となれば。
下手を打てば、冗談でなく、雪虎の命が危うくなってくる。
(…そう、させないためには)
雪虎は、ぼんやりかすみかける意識の中で、恭也の言葉を思い返した。
―――――誘惑して。
(ちくしょうが)
先ほど、恭也が言った言葉が事実なら。
どういった仕組みかは不明だが…監視の視線は、今、この状況には届かないと判断していい、ということだろう。
先ほど、結界とやらを雪虎が無効にしたように。ならば。
拘束されているような身体に、雪虎はどうにか、力を込めた。
抵抗のためではない。
恭也の動きに、―――――応じるために。
自由な、両腕を伸ばす。恭也の背中へ。
ひたり、背を抱き、押し付けた掌と指先で、じっくりと背を舐めるように、撫で下ろす。とたん。
びく、と恭也の身が痙攣した。驚きに。
その隙を逃さず。
内腿で、恭也の腰骨付近を締め上げるように、して。
腰の中心を、押し付ける、のではなく、―――――こすりつける。刹那。
がばっ、と恭也の上半身が跳ね起きた。
唇が離れる。
当然のように、拘束が緩んだ。
雪虎は喘ぐように大きく息を吸いこむ。
視界に映る恭也の顔は真っ赤だ。彼は口元を、片方の拳で隠すように、して。
臆した態度で、雪虎を見下ろしていた。
あのようにしておいて、今更、被害者のような態度を取るとは。
なんとはなしに、雪虎は、ふん、と鼻で笑った。
恭也が望むのなら、抵抗する気はない。
散々、今まで雪虎が恭也にしてきたことだ。
恭也が本気なら、受けて立とう。だが。
「俺は意志のない人形じゃない」
まだちゃんと整わない息の中、それでも雪虎は諭すように言った。
「どうせするなら」
身体を放した恭也に両腕を差し伸べ、唆すように微笑んで見せる。
「お互い、楽しもう」
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