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日誌・139 いいの?
「お互い、楽しもう」
これは、気遣いや、誘惑などではない。単なる本音だ。
ただ、強調したいのは、楽しもう、というよりも、一方的なのは嫌だ、と言外に告げた方の言葉だ。
どんな反応が返るのかと思いきや、
「…いいの?」
聴こえたのは、弱々しい声。
許しを乞うような言葉。
恭也の本音を探るように、思わず雪虎は半眼になった。
押し倒しておいて、この物言い。
どこまでも強気のくせに、肝心なところで臆するのは、一体どうしたわけか。
憮然となった雪虎が、口を開く寸前、
「ぼくがこのまま進めても、トラさんは」
恭也は、差し伸べられた雪虎の手を掴んだ。
子供のように稚い仕草で、縋るように。
しっかり、掴んでから、真剣に尋ねてくる。
「死なない?」
―――――その瞳に、いつもの余裕は欠片もない。
何の冗談だ、と笑い飛ばそうとした雪虎は、寸前で止めた。
印象的な紺碧の瞳は、燃え上がるようにまっすぐで。
…切実だった。
そこで、ようやく思い出す。
恭也が今まで身体を重ねた相手は雪虎以外、…確か、全員――――――。
雪虎は、ふ、と身体の芯が冷える心地を覚えた。
感じたのは、自身の身の安全に対する不安ではない。
そうではなく、ただ、…痛ましかった。
恭也が抱える、奥深い闇が。
それは『悪魔』そのものとは違う。
『悪魔』という存在を抱えた人間の歪みだ。
なるほど、だから。
恭也は雪虎に手を出しかねていたのか。
怯えているのだ。この死神が。下手なことをすれば、雪虎を殺してしまうかもしれない、その可能性に。
この時。
突き付けられたこの事実だけに、雪虎は目を奪われていた。ゆえに。
あまり、考えもしなかった。
もし、雪虎を殺すかもしれない、という抑制の鎖が外れたならば。
―――――死神という存在が自身の欲望をちゃんと堪えられるか、ということを。
「…何度も試したろう」
気付けば、雪虎は微笑んでいた。
慰めるように。励ますように。
恭也は、どこか、呆然とした表情を浮かべている。顔は、強張っていた。…恐怖に。
(死神が、相手に与えるかもしれない死を恐れる、なんてな)
雪虎は、掴まれていない方の手で、そうっと恭也の腕に触れる。
あとから雪虎は、この時恭也に告げた言葉と、誘ったことを心から悔いることになるが、少なくともそれは今ではない。
「逆も大丈夫だ。ただし」
ただ、この時真剣に願ったことは。
「乱暴には、するな」
どうも恭也は、加減というか、相手の体力を思いやることが下手だ。自身の体力が無尽蔵なためだろう。
だからと言って、他人を自分と同じように見られては困る。
それにやはり、もともとの力が素で強い。
下手に受け身を選び取れば、雪虎の身体が壊れそうだ。なにより、今となっては、体格に差がある。
言い聞かせるように雪虎が触れれば、恭也の身体が、小さく震えた。
まるで、恭也の方がか弱いような態度だ。
促されるように、恭也は掴んでいた、雪虎の手を持ち上げて。
「…うん」
恭也は、真剣な顔で、その指先に口づけた。目は、雪虎を見つめたままだ。
視線を雪虎から外さず、恭也は。
今度は、雪虎の掌に唇を押し付けた。忠実な騎士のように、丁寧に。そう、して。
いっきに、手首まで舐め下ろす。寸前とは打って変わって、ケダモノめいた仕草で。
そのときにはもう、不安そうな子供のようだった眼差しが。
野性の獣めいたものに変わっている。―――――恐ろしく挑戦的で、挑発的。
頭から食われそうな感じに、雪虎の、心のどこかが竦んだけれど、それ以上に。
雪虎は楽しくなった。
思わず、不敵に笑ってしまう。
そう来なくては、風見恭也ではない。
こうなれば、竦んだままでは、本当に、恭也に壊されてしまう。
これから始まるのは、油断のならないセックスだ。なに、恭也相手なら、いつもと同じ。
身を屈めてくる恭也の頭を胸に抱き寄せながら、雪虎は尋ねた。
「で? ―――――俺たちが、伝承を継承し続ける理由ってのは?」
身体への刺激に溺れ、翻弄されないためには、意識をしっかり保っている必要がある。
意識を身体から逃がすには、この話題は絶好のものだった。
合間に、恭也が、雪虎の喉元に口付ける。
反射で仰け反ったのは、それなりに、雪虎も緊張しているからだ。
受け身の経験がないわけではないが、少ない。どうしても、身体が強張る。
恭也は、どこか上の空の態度で答えた。
「欲望だよ」
「…それは、『悪魔』の話か?」
『悪魔』の話であるなら、そうかもしれない。
だが月杜の場合は、欲望がきっかけではないだろう。
どちらかと言えばその発祥は、妬みにある。
「まあ、『悪魔』への願いなんて、ソレしかないよね。誰かが望んだから、その望みが『悪魔』を呼び、力をふるうようになった」
首筋に、恭也の息がかかった。くすぐったさに肩を竦めれば、今度は強く吸い上げられる。
目立つ場所に痕を残されるのは困る。
が、下手なことを言えば恭也がどう出るか読めない。
言いあぐねている間に、服の下へ、恭也の手が潜り込んできた。
身体の輪郭をじっくり確かめるように肌を直接撫でる感触に、雪虎は息を詰める。
「前から思ってたけど、トラさんて」
遊びの一つもない真面目な声で、恭也。
「肌きれいだよね」
きれいというなら、恭也の方が格段に上だと思うが。
あえて異論は挟まず、そうか、と頷くにとどめた。
だが、恭也が本気でそう思っていることは、手の動きで分かる。
指先が舐めるように、雪虎の身体の線を辿っていく。
「なら、欲望ってのは、はじまりのきっかけに過ぎないんじゃないか? 続く理由も欲望なのか?」
「そうだよ」
恭也は息だけで笑った。
「今なお『悪魔』の力が続いているのは、それをずっと望み続ける誰かの欲望があるからだ」
―――――恐怖しながらも望み続けるとは、人間も業が深い。
だがその気持ちも分からないでもなかった。
恭也が周囲にもたらすものは根深い破滅だが、それは強力だ。
失うには惜しいと考える者も出てくるだろう。
雪虎の体質などは、使い道がなくて手元にあっても困るだけだが。
「『悪魔』を滅ぼしたいなら、コレを知り、望む者全員を始末しなきゃならないかもね」
恭也は他人事のように言った。
「…それ以外に方法はないのか」
「警戒しないでよ。そんなことしないから。現実的じゃないでしょ」
言うなり。
恭也の指先が、雪虎の乳首を捕らえた。その刺激に、雪虎がふっと息を引いた、刹那。
「月杜の『祟り』もそうだよ」
言葉の内容を、雪虎がきちんと理解する寸前。
緊張にか、すっかり勃ち上がっていたそれを、恭也の指先が強くひねった。
「望まれるからこそ、産まれるんだ」
「…っ、ばか、言うな…っ」
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