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日誌・152 幸せになるべき人間

少し呆れた雪虎は手拭いを取った大晴の手を視界に収め、 「俺に時間をくれって言ったのは…」 その手を見下ろしながら、淡々と言った。 「―――――結婚の、報告か?」 指輪をはめた自分の手を見下ろし、大晴は苦い笑いを浮かべる。 その指輪は、かつて妹と共にはめていた、彼女とペアのものではない。 一瞬、隠そうとしたのだろうか? 大晴は手を引っ込めようとして、…すぐ、踏ん張ったような横顔を見せ、俯く。 「はい、来年には、結婚します。軽蔑しますか? あんなことが、あったのに」 「なんで」 蒸しタオルで手を拭い、雪虎はコップに手を伸ばした。 冷たさが、乾いた指先にじんと染みる。 その、普通の感触が。 雪虎が大晴の報告を、特別などではなく当たりの前のこととして受け止められていることに気付かせてくれた。 だが考えてみれば、あんなことがあったのに、こうしてまた普通に話せるなんて、ここに座った段階で感じるのは遅いのだろうが、不思議な気分だ。 …時間の流れのおかげかな、と思いながら、感じたままに言う。 「終わった出来事を、いつまでも足枷にする意味ってなんだ?」 覆水盆に返らず。 どんなに最悪の出来事で、取り返しがつくならどうにかしたいと思っても、過ぎ去った過去は戻って来ない。 終わった。 そう、…終わった、とは、そういうことだ。 たったそれっぽっちのことを、実感として理解することの、どれだけ難しいことか。 いつまでも躓いて、転びっぱなしではいられない。 たとえそれが、大切な人の死であっても。歩き出さねばならない。生きている以上。精一杯。 ちょっと、心を探ってみたが、本当に、大晴に対して、負の感情など一つも湧かない。 素直に、祝福の気持ちが湧いてくる。 (コイツは幸せになるべき人間だ) 心のままに、言葉を紡いだ。 「おめでとう。前へ進めたんだな」 雪虎の中で、これで本当に、一つの区切りがついた。 「ああ、それから」 当時、あまりに必死で余裕がなかったから、後で思い返して、気になっていたことを口にする。 「あの時は、ろくに話も聞いてやれなくて悪かったな」 当時、大晴は。 何度も何度も、雪虎や父の辰己と話をしようとした。 自分が見たいものしか見ようとしない辰己は端から事実はこうだと決めつけて、彼の話など聞こうともしなかったし、…雪虎も。 状況を処理するので、精いっぱいだった。どうしても。 ―――――時間が、必要だった。 そうして、今。 当時はどうしても無理だったことが、自然とできるようになっている。 大晴は、俯いたまま、動かない。何も言わない。 その態度に、雪虎は苦い気持ちで言う。 「恨み言とか、…怒ってるなら、今言えよ。今度はちゃんと聞くからさ」 「…そんなこと…っ!」 ―――――…ん? 応じた大晴の声が語尾辺りを震わせるなり、不自然に途切れたことに、雪虎は前を向いたまま口元をへの字にする。 「…おい、まさか泣いてるんじゃないよな」 「泣いで…っ、ばせん…!」 堂々と嘘をつくな。 妙に察しのいい、それも底抜けの善人というのは、これだから苦手なのだ。 雪虎は決して大晴の方を見ようとはせず、難しい表情で頬杖をついた。 「これから他人の人生も背負おうって一人前の男が、外で涙を見せるな」 「…す、みま、せん」 目いっぱい鼻をすする音がして、袖口で目元を力いっぱい擦った気配の後、ようやく大晴が顔を上げた気配がした。 タイミングよく、その時になって膳が目の前に運ばれてくる。 並べられるのを待って、店員が去った後、箸を取り上げながら大晴が言った。 「実は、こうしてまた義兄さんと話をしてもらえるなんて、思ってなくて」 雪虎の方は、今日、駅前で会うまで、大晴と隣に並んで昼飯を食べるなんて想像もしていなかった。 「それだけでもありがたいのに、おめでとうなんて言ってもらえるなんて、本当、…」 だから感極まった、と言いたいのだろうか。 また声が潤みかけ、押し込むように大晴はご飯を口にかき込んだ。 雪虎はやりにくい気分のまま、再会してからこっち、気になっていたことを言った。 「その義兄さんての、やめろよ。もうそう言うんじゃないんだからさ」 「義兄さんは義兄さんですよ」 懐っこいのか、頑固なのか、分からない感じは、変わらない。 みそ汁を一口飲んで、雪虎はこの際、気になっていたことは全部聞くことにした。 「仕事、変わったんだな」 「ええ…はい、まあ…」 大晴は困ったように笑って、曖昧に答える。 雪虎としても、こういう席で悪感情を吐きだしたくないから、端的に尋ねた。 「あれから、…あのクソ野郎がまたお前の前に顔出したりしてないか」 誰のことを言ったかは、すぐに通じたようだ。 大晴は、困ったように眉を八の字にする。 「義兄さん…実のお父さんのことをそんなふうに」 「あ?」 「いえっ。はい、会ってません! …一度も…」 凄めば、さらに困ったと言いたげな態度で、大晴はちまちま白身魚のフライをつつく。 その箸先が不意に止まったと同時に、大晴は静かな声で言った。 「あのひとが、会社にぴたりと来なくなった頃、…月杜の方と会いました」 おそらく、秀のことだろう。 あの男は律儀だ。そういうことを、家人に任せるとは思えない。 「困っていた件で、義兄さんが、月杜家に話を通してくれたと聞きました。ありがとうございます」 それ以上のことを大晴は言わなかったが、おそらく、当時は相当参っていたはずだ。 あの父のことだ、自分だけの筋を押し通そうとして、無茶苦茶をやったに違いない。 それを丸く収め切って見せたのが、…秀だ。 秀を思い出すと、つい、雪虎は顔をしかめてしまう。 秀に、父親がやらかしている不祥事をおさめてもらうことと引き換えに、月杜家の離れで何をしたかを思い出したからだ。 連鎖的に、この夏、地下牢で自分たちがどうなったかまで立て続けに脳裏に蘇ってきた。 昼間から、思い出すことではない。 ―――――結局のところ、雪虎は夏からこっち、秀と会っていなかった。 一度連絡を入れたらいいだけの話なのだが、どうしても指先が止まってしまうのだ。 情けないが、そのままずるずる今日まで来ている。 そう、今日まで、だ。 (普通に生活してると、ここまで、機会がないってことだ。会長と会う機会が) 以前から言っているが、月杜家の当主と、肉親と縁を切った遠縁の人間など、赤の他人である。 たとえ雪虎が、月杜が守るべき祟り憑きだったとしても、大した影響力などあるはずもなかった。 現状が、そう告げている。 (第一、本当に守らなきゃいけない存在かよ、俺なんかが) だいたい、守ったところで、何かメリットはあるのか。その意味は。 卑屈に考えそうになって、唇を真一文字に引き結ぶ。 こんなことで、自分を貶めることに意味はない。

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