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日誌・153 不自然な、いつも通り

「義兄さん? どうかしましたか」 なんでもない、と首を横に振って、雪虎は焼き魚の解体を始めた。 「蒸し返すつもりもないし、責めるつもりもないが、ひとつ、教えてくれ」 他人事のように雪虎は尋ねる。 「あの頃、お前は妹と別れるつもりはなかったんだな?」 思い出すのは、―――――夏の最中。 悪意ある魔女と無防備に対峙した、あのとき。 雪虎は、妹の身に、かつて何が起こったのかを垣間見た。 自分の記憶のように。 あれが、真実か。 作り事か。 時間が経てば、ただの夢だった気にもなっているけれど。 「時期が後にずれたとしても、結婚は望んでいた…それが正解、で良かったか」 今更それを確かめたところで、…意味があるとは、思えないが。 本人が、目の前にいるのだ。 つい、聞かずにはいられなかった。 「…なんだ」 唖然と瞠った目を向けてくる大晴に、雪虎は低く唸る。 「ああ、いや、いい。ひとまず、口を動かせ。中のものをちゃんと噛んで、ちゃんと飲み込め…そうそう」 「―――――すみません。だって、びっくりして…」 しっかり噛んで飲み込んだ大晴は、まじまじと雪虎を見て声を低めた。 「なんで、それをご存知なんですか?」 「…じゃ、本当なのか…」 であるならば、魔女が見せた妹の事情は、真実と思って差し支えないのだろう。 目を伏せた雪虎の手元で、器用に、すぅっと魚の身から骨が取れた。 うわあと言った顔で、大晴がそちらに気を取られる。しばし流れる沈黙。すぐ、我に返った大晴が、 「ええと、でも本当、誰から聞いたんですか?」 首をひねった。 「その、…お義父さん、には…何度か、お話したんですが、聞いてもらえなくて…いえ、聞こえてたかどうかも分からず…」 「お義父さんとか呼んでやる必要はない」 「はい…っ。や、そういうわけには…まあ、お義父さんの様子から、ぼくが言ったことを義兄さんに話しているとも思わなかったんですが、もしかして」 「あるわけないな」 元から、父親と雪虎は、外で起こった出来事を和気あいあいと話せる仲ではない。 むしろ不仲である。 そんなことを、わざわざ言って回るつもりもない。 大晴のことだから、雪虎の言動から察してはいるだろうが。 ひとまず、雪虎は自分の現状だけを告げる。 「もう、あの野郎とは親子の縁を切ってるし」 「―――――…じゃ、家を、出たんですか」 「ああ」 「…、お義父さんはあの家に、まだ?」 「そう聞いてる。確認はしてない」 みそ汁の椀に両手を添えて、大晴は俯いた。複雑そうに、小さく首を横に振った。 「もしかして、ぼくと会う前に、父か母とどこかで会ってますか?」 「…会ってない」 彼らとて、雪虎の顔など見たくもないだろう。 「両親以外に、事情を知ってる人なんていないのに…や、そりゃ友達は知ってますけど、両親以外に義兄さんと共通の知り合いなんて、いませんよね」 いや、秀と大晴が会ったのなら、彼も共通の知り合いと言える。 が、まさか、秀がそういった事情に興味を示すとも思えない。大晴としても気楽に話せる相手ではないだろう。 とはいえ、どうして事情を知ったか、など、本当のところを離したところで信じてもらえるわけもないし、のぞき見をした気分でもある。 雪虎は、正直に言った。 「悪いが、詳しくは言えない。…知ったのは、この夏だよ」 「じゃ、それまでは」 「知らなかった。なにも」 「…そう、ですか」 雪虎が事情を正確に言い当てた理由を、それ以上は聞いてこない。 彼なりに辻褄を合わせてくれているといいのだが。 何かを振り切ったように、大晴はきびきび答えた。 「仰る通り、ぼくに、彼女と離れる気はありませんでした。ただ、…ほら、家族同士の食事会があったでしょう? その後、それまで結婚に肯定的だった両親が、渋りだして」 雪虎は一瞬、瞑目した。 魔女が見せた光景の通りの台詞だったからだ。 ぽつぽつ、大晴は寂しそうに続ける。 「説得には時間がかかりそうだったので、美鶴には、少し結婚式を延期しようって言ったんです。身内に祝福されない式なんて悲しいだけですから」 大晴らしい考えだと思う。 「説得の時間がほしかっただけで、婚約破棄するつもりなんてぼくにはなかった」 「ああ」 「…でももし、美鶴がぼくの申し出を誤解したのだとすれば」 重い声で言いさした大晴に、雪虎は目を向ける。 だが、大晴は遠い目になって、言葉を切ってしまった。 ただ、大晴が続きを言おうとした時点で、雪虎の中で、変な直感が働く。 大晴が何を思ったか、瞬時に察した。皆まで言う前に、鋭く否定する。 「いや違う」 雪虎は強く言った。 「妹は何もかも正確に理解してた。そこは勘違いするな」 ああ、だからか、と雪虎は得心がいった。 なんとなく、雪虎を見る大晴の目に罪悪感が見えるのは、美鶴の死の原因が完全に大晴にあると彼が『もしかして』と思う部分があるからだ。 万が一、の可能性が捨てきれないのだ。 美鶴がああなったのは、本当に、大晴のせいなのでは、と。 彼の意図が十分に伝えきれていなかったのでは、と…大晴は悔やんでいる。 まさか大晴が、そんな考えを持っているとは思ってもみなかった。 いや、少し考えればわかる話だ。 なにせ、彼に難癖をつけに言ったのは、あの父親なのだ。 (俺はバカか) 雪虎は内心、歯噛みする。真っ先に、そこをフォローしてやるべきだった。 「…はい…」 多くは言わず、大晴は何かを飲み込むように、疲れた顔で笑った。 「ああ、そう言えば、…なんでだったんだ?」 どう話題を変えればいいのか分からず、雪虎は脳裏にふっと浮かんだ、人の好さそうな笑顔の、大晴の両親のことを口にする。 「ご両親が、妹とお前の結婚に待ったをかけた理由」 「…あ、それは…」 話題の変化に、というより、話しながらも、もりもりご飯を食べる雪虎のマイペースぶりに我に返ったか、大晴は少し言いにくそうに答えた。 「八坂家のご家族の、…義兄さんに対する対応が引っかかったから、です」 思わぬ答えに。 ―――――ぴたり、雪虎の端の動きが止まった。 「…は?」 それこそ、寝耳に水だ。 …なんだって? つまり、雪虎の父と母、そして妹が、雪虎に向ける態度に、引っ掛かりを覚えた、と大晴は言ったのか。 しかも、それが理由で、肯定的だった結婚話に、不安が兆した、と。 「実のところそれは、ぼくも引っかかってて。他人に接するみたいなよそよそしさが目についた、と言いますか…その、すみません。家庭の事情なんて、それぞれなのに」 ―――――あの日、何か不自然なことがあっただろうか? いや、八坂家にとっては、いつも通りの食事の席だった。 (違う。そうか) 雪虎は、一度強く目を閉じる。 ―――――不自然、だったのだ。日頃から、八坂家での食事の席が。 団欒とは程遠い、絆なんて一切ない、もう皆が余所を向いている…それが。 共に過ごした食事の席で、他人の目には明白だった、そういう、話なのだ。 …認めるのはつらいが。 (お前のご両親は正しいよ) どれだけ取り繕ったところで、普段から行っていることは、にじみ出るものなのだ。 それを、こんな風に―――――見透かされた、なんて。 これは、…何と言おうか、雪虎もショックを受けた。 何にかは、うまく説明できないが。 喉の奥が詰まったような心地になった、そのとき。 「いらっしゃいませー」 間延びした店員の声が聴こえた。 昼時だ、繁盛しているようでなによりである。 なんとなく視線を逃がすためにそちらを見遣れば。 (ん?) 自然と扉へ向けた視線の先に、…誰の姿もない。 だが、扉は開いている。 なんだ、と思って視線を動かせば。 …いた。 かなり下の方に、頭が見えた。 つまりは、子供が、扉の外に立っていた。 それだけの状況なら、馴染みの近所の子供がやってきたのか、はたまた小さな子が入る場所を間違えたのか、と思うところだが。 ―――――やってきたのは、毛色が違う子供だった。 日本人ではない。 金髪。 空色の瞳。 紺色のワンピース。 そして―――――美少女。 歳の頃は、小学生低学年と言ったところか。 その女の子に、雪虎は見覚えがあった。 (今朝、駅で見た子じゃないか)

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