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日誌・154 教授
言ってみればそれだけ。顔見知りのレベルですらない。
相手は雪虎など知らないだろう。
…旅行者だろうから、傘など持っていなかったに違いない。
髪や、紺のワンピースが少し濡れているようだ。
どうすればいいのか分からない、と言いたげに、入り口から店内を見渡すその姿に、雪虎はあることに気付いた。
(一人?)
今朝は、連れが二人いたはずだが。まさか。
―――――迷子…?
雪虎と同じく、出入り口に注目していた店内の大人たちは、我に返ると同時に、同じ言葉を脳裏に浮かべたに違いない。
こういう場面に遭遇した場合。
触らぬ神に祟りなし、とばかりに見て見ぬふりをする者と。
考えるより先に、手を差し伸べる者。
果たして、どちらが多いのだろうか。…なんにしろ。
今日、この日。雪虎の隣には、底抜けの善人が座っていた。
「えっ、ねえ、ちょっと、キミ!」
わたわた立ち上がり、驚いた表情で、入り口まで足早に歩いていく。
雪虎は諦めの息を吐きだした。
あれだけ小さな子供が一人でウロウロしているのを見て、放っておける人間ではない。
大晴は、無言で見上げた女の子と視線を合わせ、矢継ぎ早に尋ねた。
「この店に親御さんでもいるの? それとも、どこか近くで一緒にいた人とはぐれた?」
雪虎は一人、カウンター席で額を押さえる。
―――――知っていたが、どうしてこう、面倒ごとを好んで背負い込もうとするのか。
それに、相手は外国人。日本語が通じるかどうか。
対する少女はと言えば。
落ち着き払った顔で、ともすれば自分より慌てている大晴を冷静に見上げた。
そして、一言。
「はぐれた」
…日本語で、答えた。
「ちなみにはぐれたのは私ではなく、一緒にいた二人の方なのだ」
―――――しかも、何と言えばいいのか、話し方が独特である。
少なくとも、子供の言葉づかいではない。
「おいしそうなにおいに、もしかしてここにいるのではと思って店を覗いてみたのだが、いなかった。…騒がせたのなら、悪いことをしたね」
「ああ、ちょっと待って、待ったっ」
引き戸を閉めて去ろうとする少女の肩を掴んで、大晴は店の中に引き入れた。
まあ、雨の中、小さな女の子を外へ追い出す人でなしにはなりたくない。
「外は雨が降ってるから、しばらく中で休みなよ」
少女の背を押し、大晴が戻ってくる。抵抗の隙も与えられなかった女の子は、戸惑っているようだ。
他人のふりをいまさらするわけにもいかない。
雪虎は仕方なく、席を横に移動。大晴との間に、ひとつ席を開けた。
「ありがとう、義兄さん。さ、君、ここに座って」
大晴は促すが、子供にとって、その席は高い場所にあったようだ。
女の子は、戸惑ったように席に手をかけた。少し悩む様子を見せる。
仕方なく、雪虎は、一度立ち上がった。女の子に手を伸ばす。
「よ…っと」
無造作に引っ張り上げて、丁寧に椅子に座らせた。だがやはり、丈が足りない。
「お腹すいてない? 何か食べる?」
言う大晴を遮って、雪虎。
「いやまず、子供用の椅子を」
雪虎の行動にか、いっとき、ぽかんとしていた少女は、すぐ我に返り、
「ありがたいが、お構いなく。はぐれた相手が心配だ。私がいないと何をやらかすか…」
胸の前で両手を組み合わせ、何かを祈るように、俯く女の子。
大晴が難しい顔になる。
「友達と遊んでたの? 学校は? ああ、いや、それならひとまず、警察に」
「そう矢継ぎ早に言うな、雨男」
見たところ、少女は冷静だ。しかもどうも、大人顔負けの知恵も感じる。
ただ、見た目が見た目であるだけに、放っておくのは心配だ。
せめて必要以上の不快は与えないようにしよう、と帽子のつばを下げながら、雪虎は言った。
「…あ~、キミが捜してるのは、二人かな」
その言葉に、彼女は目を丸くして顔を上げる。
「一人は高校生くらい、一人は四十代半ばって感じの…男。どっちも外国人には見えなかったけど」
「…これは驚いた」
冷静な少女の言葉と反応に、雪虎はなんとなく察した。
(やっぱりこの子、知能は大人か…それ以上なんじゃ)
「なぜ知っているのかね」
そして、その大きな空色の目に最終的に浮かんだのは、―――――疑念。警戒。
それを受けて流す気分で、雪虎は早口に説明した。
「俺は今朝、知人の見送りに駅にいたんだよ。そこでキミら三人を見かけたってだけ」
とたん、―――――ぱちり、少女が瞬き。
「そう言えば、今朝、ぼくらが会ったの、駅前でしたね」
察しがいいのか悪いのか分からない大晴が、すかさずフォローしてきた。
直後、パッと少女の頬が赤く染まる。
「これは失礼。私はてっきり…いや、早合点をしたね」
ペコリ、頭を下げてきた。
「何を早合点したのかは知らないけど」
深入りするつもりはない。
流せるものはサクサク流すに限る。突っ込もうとした大晴を目で黙らせ、雪虎。
「同行者とはぐれたのなら、ウロウロするより、一か所にじっとしてた方がいいと思う。はっきり言うなら、警察に行ったほうがいい」
苦悶の表情で、女の子は緩く首を横に振った。
「そんな、時間的余裕はないのだ…失敗が許されない相手との待ち合わせの時間が迫っているのだよ」
会話の流れからして、その、はぐれた相手との待ち合わせではないだろう。
(大事な顧客との待ち合わせ、って感じだな)
正確なところは、ニュアンスが違うだろうがそれに近いのだろう。
「ならここで探し回るより、一足先に目的地に行けばどうだ? そこで顔を合わせられるかもしれない」
「それしか、手はなさそうなのはわかるが、…目的地の地図は私しか持っていなくてね」
その間、連れは野放しということで、おそらくこの子は、それが心配なのだ。
「目的地って?」
横からにこにこ口を挟んだ大晴が、少女の目の前に、プリンよろしく茶碗蒸しを置いた。木の匙までつけて。
「有名処なら、聞けば分かるし。昨今は、スマホっていう便利なものがあるでしょ?」
言った大晴を少女は一度、ちらと上目遣いに見上げる。その視線をすぐ目の前の茶碗蒸しの容器に戻し、
「地元で、どれだけ名が知られているのかは知らないが…」
肩から斜め掛けに提げていた、今は腹の前に置いている小さなバッグをぎゅっと掴み、彼女はその名を口にした。
「月杜家だ」
刹那。
「―――――教授!」
店の出入り口が、そんな言葉と同時に、スパンッ、押し開けられた。
いや正確には、店内を覗き込んだらしい誰かが、勢いよく飛び込んできたようだ。
店内に、『教授』という存在を見つけたようだが。
(教授)
誰? という視線が、店内を行き交った。委細構わず、その誰かさんはずかずか店内へ入ってくる。
遅れて響く、「いらっしゃいませー」。
「やっと見つけましたよ、気付いたらいないんですもん、びっくりしました」
近づいてくる声に、振り向けば。
「あ」
雪虎は、思わず声を上げる。
カウンター席へやってきた相手は―――――少女の連れの一人だった。若い方。
「いなくなったのは、お前たちの方だ、馬鹿者」
少年の声に応じたのは、雪虎の隣にいる―――――少女。
「今頃腹を空かせているだろうと定食屋を覗いて行けば、やはりか」
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