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日誌・156 忘れモン
「…外へ来い、だったか?」
雪虎は、大晴の肩に置かれた男の手を一瞥。すぐ、大晴の顔へ目を戻す。
赤くなっていた大晴の顔が、次第に土気色へ変わって来た。雪虎は眉をひそめる。
(術っていったい何だ。…こいつらいったい、何者だ?)
不思議の業を使う存在なら、夏に一度、会っていた。―――――魔女。
彼らはあれらの関係者だろうか。
しかし、魔女であるならば、すぐさま雪虎の中の祟りに気付くはず。少なくとも、夏に出会った魔女という存在は、恭也と離れるなり、一人残らず雪虎を避けた。
目の前の三人には、雪虎の中に封じられた祟りの存在に気付く様子もない。
それでも、彼らは、魔女たちと似た力を持っている者ということか。
分かったのはそのくらいで、ならば何者かと言われたなら、想像もつかないが。とにかく。
大晴の様子から、あまり、時間をかけるわけにはいかない。
雪虎は、降参するように、両掌を耳の横に挙げた。
「…分かった。出て行けばいいんだろ。ソイツから手ぇ放せ」
外に、何が待ち構えているのか。知らないが、先手を打たれた以上、こちらの負けだ。
すぐさま腹を決めた雪虎は、素直に従うつもりでいた。…この時までは。だが、
「申し訳ありませんが」
男は慇懃に告げた。
「おれがこの子から手を放すのは、キミがきちんと外へ出て行った後です」
雪虎の申し出を、男が穏やかに拒否したのに―――――いっきに、気が変わった。
「…お前…」
足元で女の子が低い声を上げる。
というのに、男は見向きもしない。話の流れから、彼が最も優先すべきは彼女のはずだ。にもかかわらず、彼のやり方は一方的だった。
冷めた目で男を見遣り、
「あ、そ」
雪虎は耳の横に挙げていた手を、ポケットに戻した。
気付けば、周囲の視線が集中している。
何が起こっているか分からないなりに、固唾を呑んで状況を見守っていた。平和な昼食時に、申し訳ない話である。
店内の揉め事は、早急に終わらせるに限るだろう。
「おい」
雪虎は、定食を持って来てくれた店員に声をかける。
「…二人分、置いとく。お釣りはいいから」
言いながら、五千円札をカウンターに置いた。すぐ、踵を返す。
扉の方へ、一歩踏み出し――――――直後。
雪虎は、帽子のつばに手をかけ、くるっと振り向いた。
気負いなく、彼が男の方へ一歩踏み出したのに、
「何か?」
男は、ぐっと大晴の肩を掴んだ手に力を込める。それを尻目に、
「ああ、――――忘れモンだ」
不敵に笑い、雪虎は男に顔を近づけ―――――隠していた顔を間近で晒した。
男が目を瞠る。嫌悪に満ちた表情を浮かべ、思わずと言ったように顔を背けた。
自分を守るように。
雪虎には慣れた反応。
隙だらけだ。
間髪入れず、
「…よっ、と」
雪虎は相手の肩を思い切り引き寄せた。流れる動作で、膝を跳ね上げる。直後。
雪虎の膝が、相手のみぞおちに埋まった。予想以上の正確さで。
声もなく、腹を押さえ、男が床の上に蹲る。当然、手は大晴から離れた。
あまりに上手に決まった不意打ちに、他人事ながら、心配になる。
(なんだ、コイツ…やり返されるかもって警戒の一つもしてなかったのか?)
結論―――――阿呆だな。
力なく蹲った男を、連れの女の子と少年が唖然と見つめる。
彼らには悪いが、男の手が離れるなり咳込んだ大晴の方が、雪虎は心配だ。
腕を掴む。
引き寄せた。
たたらを踏みながら立ち上がるところを、無理に引っ張って扉の外へ向かう。
大晴が、足をもつれさせながら、小走りについてきた。
そして、呂律が回らないながらも、口を開く。
「義兄さ、ん…ぼくの分の支払い…!」
「言ってる場合か!」
口をきいたと思ったら、見当違いのことを言い始める大晴を一喝、雪虎は扉を開けた。
駆け出そうとして―――――前へ乗り出していた身体を、すぐ、雪虎は後ろへ引っ込める。
背中に大晴がぶつかってきたが、構っていられない。
なにせ、鼻先を、ブゥン、と空気を切る音を立てて何かが振り下ろされたからだ。真っ直ぐ駆け出していれば、直撃だった。
それが、何なのか。
見れば、扉の横に、巨漢が立っている。
先ほど振り下ろされたのは、彼が両手を組み合わせて作った拳だ。
直撃すれば、脳震盪を起こす――――程度で済めばまだいい方だろう。
(外へ連れて来いって…気絶させて、問答無用で連れて行く気か!)
誘拐された経験がないわけではないが、気分のいいものではない。
それとも、単に雪虎を叩きのめしたいだけか。
敵が多い雪虎としては、叩きのめしたい、と思う相手にこそ心当たりが多い。だが。
そう言った連中ほど、雪虎が月杜の関係者だと知っていて、手を出してこない。
ならばどこかへ連れていきたい者がいる、と想像するわけだが。相手となれば、見当もつかなかった。
だが逆に。
雪虎が外へ行けば、得体の知れない相手の目的は達成されるわけだ。そう、少なくとも、あの男の目的は。
ならばもう、男が大晴を狙う理由はない。で、あれば。
「…えぇ…義兄さん…?」
雪虎の肩口に顔をぶつけたらしい大晴を、雪虎は振り向きざま、店の中へ押しやった。
これ以上一緒に行くのは、逆に、大晴の身に危険が及ぶ。
「お前は中の方が安全だ」
言い置き、拳を振り下ろし切った男の前を、雪虎は低い姿勢で駆け抜けた。
捕まえようと腕が伸びてきたが、ぎりぎりで掻い潜る。
外はまだ、小雨が降っていた。
外にいた巨漢は、スーツ姿だ。
終始無言で冷静な態度といい、玄人の気がする。
一対一でやり合うには、雪虎には分が悪い。逃げるが勝ちだ。
歩道を駆け抜けながら、一旦、会社の車のところまで戻るか、と、浩介の姿を脳裏に思い浮かべるなり。
「―――――トラ?」
道路の方から、低い声がかかった。見れば、
「…大将っ?」
悪友・尚嗣の兄、正嗣が、車の中から、窓を開け、驚いたような顔で、雪虎を見ている。
いつも通り、一度顔を背けたものの、もう一度、見直してくる、という動作付きで。
結城家の当主だけあって、相変わらずいい車に乗っていた。大きい。広い。
運転手は、いつもの男だろう。
(…頼めば、乗せてくれないか?)
冷静に考え、目の端に、信号機をおさめる。
そろそろ、停車している正嗣側の信号が青に変わるだろう。
タイミング的にもいい。
判断は、咄嗟。
雪虎は、後部座席の窓に張り付いた。
「悪い、大将。乗せてくれないか? 一旦、この場から離れられたら、すぐ降りるから」
正嗣は、すぐ、表情を真剣なものに変える。
ドアを開け、奥へ移動しながら、雪虎が座る空間を開けてくれた。
その反応に、雪虎は安堵の息をついた直後、
(…なんだ?)
違和感を覚える。
雪虎が知る正嗣は、咄嗟の状況で、このように察しのいい行動を取らない。
というか、取れない。
それくらいの石頭だ。
そうだ、雪虎がいきなりこんなことを言い出せば、いつもの正嗣なら、
―――――また、お前は何をやったんだ。悪いことの片棒なら担げない。
こう、頭から決めつけてかかったはず。それが。
…この時点で。
身を翻して逃げていれば、また展開は違ったはずだ。
だが、まさか、という気持ちが働いて、雪虎は咄嗟に動きを止めた。
なにより、正嗣は、雪虎が月杜家の遠縁だと知っている。いや。…彼は。
―――――茜の死を未だ受け入れられず、月杜秀を恨んでいる。
秀の妻、月杜茜は、結城正嗣の妹であり、とうに亡くなった女だ。
その死を、生き様を、不幸だったと決めつけ、それを夫の秀のせいだと言って、正嗣は月杜を憎悪している。
ひやり、としたものが雪虎の胸に湧いた。車の中へは入らず、雪虎は顔を上げる。
正嗣を見直した。とたん。
「―――――醜いな」
聞き慣れない声が、嫌悪も露に雪虎の耳に届く。その時になって、気付いた。
正嗣の向こう。
…誰かが座っている。
例によって顔を背けているから、顔はよく見えない。
「本当にソイツが?」
おそらくは、正嗣に対しての言葉なのだろう。正嗣は、困った顔で微笑んだ。その、表情が。
―――――いきなり、強張った。同時に。
雪虎は、自分の身体に影がかかったことに気付く。
(…あ。ヤバい)
何かが振り下ろされる、それが直撃する軌道に、自分の頭があることを、雪虎は察した。
だが、避けられるタイミングではない。
判断すると同時に、正嗣が切羽詰まった声を上げた。
「乱暴は止してくれ! きちんと話せばコイツだってわかって…、」
最後まで台詞を聴く前に、雪虎の頭に衝撃が走る。
一気に、視野が暗転した。
同時に、記憶の淵から、かつて、委員長と呼んでいた茜から聞いた言葉が蘇る。
―――――トラちゃん、もし、いつか、兄さんが月杜家に対してバカなこと仕出かしたら。
記憶の中の彼女は、申し訳なさそうだ。
―――――庇ってあげて。一度でいいから。月杜の人間に言うこと聞かせられるのって、トラちゃんしかいないの。
意識の端で、正嗣が動転した声を上げるのが聴こえる。
「なんてことを…っ、人の頭を思い切り殴るなんて!」
「大丈夫です、何度もやっていることなので、加減は知っていますから」
「ああ、ソレ、本当に醜いな」
身体を押し上げられる感覚があったと感じたのちに、冷たく傲慢な声が続けた。
「頭になんか袋でも被せといてよ。空気まで濁りそう」
そんな台詞が聴こえたのを最後に。
ふつり、と意識まで完全に途切れた。
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