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日誌・157 で?
× × ×
「トラさん戻って来ないッスね?」
スマホを覗き込んでいたバイトの真也がぽつりと呟く。
休憩時間が終わるまでまだ時間はあるが、他ならともかく、相手は雪虎だ。基本、真面目である。
そろそろ戻ってきそうなものだ。
思った真也が大通りへ続く路地を見遣るなり。
「…迎えに行く」
運転席で目を閉じていたはずの浩介が、のそりと身を起こした。
やはり、眠ってはいなかったようだ。
休憩時間など、寛いでいるように見えて、隙のある浩介というものを真也は見たことがない。
欠伸もせず、よろめく様子もなく、するっと車から出て、すたすた歩き出す。
浩介は、やせぎすだが、立ち上がると、えらく体格がいいように見えた。
骨格ががっしりしているせいだろう。
その背中に真也は慌てて声をかけた。
「ッス、待ってます。あ、二次災害なんてことにならないように気を付けて下さいッス」
よく分からないことを言って、またスマホを覗き込む。
浩介が行くならもう安心、とばかりに真也は手を振った。
特に手を振り返すこともせず、歩きながら真也は懐を探る。
煙草を取り出した。
一本口に咥え、ライターで火をつける。
歩き煙草とはマナーがなっていないが、他人からの責めるような視線程度では、浩介は行動を改めたりはしない。
指摘する者がいればやめるが、その場限りだ。
行き交う人々の中、平気で煙を吐きだしながら、道路を横切った。
灰が落ちそうになれば携帯灰皿を取り出し、その中に灰を落とす。
顔を上げれば、すぐに、目的の店は見えた。とたん、小雨が降りだす。
浩介は、ひょいと目を上に向けた。すぐ、前を向く。
傘がいる程度でもない。
浩介より先に、雨から逃げるように目的の店の暖簾をくぐった客が、少し、まごついた態度で、立ち止まる。結局、回れ右して、店から出て行った。
見ていた浩介は眉をひそめる。しかし、その行動に臆した様子はない。
歩調を緩めず、咥え煙草のまま、暖簾をくぐり――――――首を傾げた。
なんとなく立ち止まり、一度目を閉じる。
その上で、改めて店内のありさまを見つめたが、寸前までと光景が変わった様子はなかった。
はて、何がどうなっているのだろう。
浩介の目には、なぜか小学生一年位の女の子―――――怖いくらいの美少女―――――が、土下座した大の男の後頭部を踏みつけているように見えるのだが。
傲然と構えた女の子は、その年頃にして、恐ろしいことに、既に女王の風格があった。
対する男はと言えば。…小物感満載だ。気の毒になる。いずれにせよ。
昼日中の、健全な定食屋のど真ん中で、繰り広げられる光景にしては、…何と言うべきか、場所を間違っていますよ、と指摘せざるを得ない。
なぜか近くで、その様子を見学するように、置物のように正座している高校生くらいの少年がいるのがまた倒錯的というか。
しかも、場に居合わせた皆、硬直したように動かない。
店内に満ちているのは重い沈黙だ。
寸前まで何があったか知らないが、浩介には関係のない話だし、興味もない。
こんな場合にもマイペースな浩介は、飄々と店内を見渡す。そこではじめて、眉をひそめる。
いない。
雪虎が。
…おかしい。
店にいないなら、もうとっくに、彼なら浩介たちのところへ戻ってきているはずだ。ならば。
「なあ、おい、誰でもいいから、教えてくれないか」
声をかければ、ようやく幾人かが顔を上げた。
「今ここに、都築大晴ってヤツはいるか」
「あ」
間の抜けた声を上げたのは、問題の少女の肩に、戸惑いながらも止めようと、手を置いていた青年だ。
「ぼ、ぼくです。そのツナギ、もしかして、…義兄さんの?」
義兄さん、という言葉に、一瞬、浩介の目元に険が走った。
垂れ目で穏やかそうな目元が、不意に据わる。
それだけで、スイッチを切り替えるように纏う空気が変わったが、微妙な変化に誰も気付かない。ただ、浩介の登場で硬直していた空気に穴が開き、
「こ、困ります、お客さん!」
さすがに耐えかねた、と言った態度で、厨房から出てきた初老の男が声を張る。
「昼の掻き入れ時に、こんな騒動は…」
「すみません、本当にそうですよね!」
真っ先に大晴が反応し、ペコペコ頭を下げた。
その勢いに、気圧された態度で、店の男は鼻白む。構わず、浩介は口を挟んだ。
「おい、都築大晴」
「はいっ!」
大晴は忙しく浩介に向き直り、とたん、目をまん丸にした。
天敵を前にした小動物の態度で硬直。
浩介が醸し出す不穏さを、敏感にかぎ取ったようだ。
「トラ先輩はどこだ」
浩介が、言うなり。
―――――大晴は、泣きそうに顔を歪めた。言葉に詰まりそうになりながら、それでもどうにか答える。
真っ正直に。
「つ、…連れ去られました」
―――――すぅっと、いきなり、空気が変わった。
思わず、大晴は浩介の顔を見直す。
間違いなく、空気の変化の元凶は、彼だったからだ。浩介の表情は、ひとつも変わっていない。だが、その目が。
視線がかち合うなり。大晴は蒼白になった。
「―――――で?」
ちらちらと狂気にも似た光が瞬く双眸を真っ直ぐ大晴へ向け、浩介は温度のない声で尋ねる。
「お前は何してんだよ」
「それは」
言い淀む大晴に、苛立った気配はないものの、浩介は矢継ぎ早に質問を重ねた。
「現場は見たのか。誰に連れ去られた。いや、あのひとがおとなしく連れていかれるか?」
嫌な予感が、浩介の中で、猛然と膨らみだす。
それに伴い、彼から漏れ出る鬼気が空気を凍り付かせていく。
蒼白になって、喉を詰まらせた大晴を庇うように、
「待ちたまえ」
男の頭から足を退けた女の子が彼の前へ立った。
浩介の視界の端で、置物のように正座していた少年が、慌てたように土下座から姿勢を変えない男の背中をさする。
それを横目に見遣り、
「彼は悪くない。もとはと言えばこの」
女の子の小さな手が、むんず、と男の襟首を掴んだ。とたん、男の上半身が引っ張り上げられた。
片手で、少女とも思えない怪力である。
情けないことに、男は目を回していた。
「わたしの弟子がしでかした不始末。答えさせよう」
あろうことか、女の子は、ボールでも投げるように、浩介の足元へ男の身体を投げ捨てる。
その上で、弟子と称した男に尋ねた。
「あの、親切な若者の身を望んだのは、誰かね? そして、どこへ連れて行かれた」
どうやら、この場で、彼女が一番、話が通じやすいようだ。
いったい今、何があって、このような状況になっているのか、それはどうでもいい。
浩介が知りたいのは、一つだけだ。
「あのひとは、どこだ」
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