「あのひとは、どこだ」 この場で、品行方正に振る舞う必要をひとつも感じない浩介の声は、平坦だが、冷ややかに響いた。 男は焦ったように口を開く。だが、 「お、おれは頼まれただけだ…っ」 こういう人物にありがちなことだが、相手の言うことを聞かず、まず保身に走った。 当然のように、女の子や浩介の質問など耳に入ってもいない。 誰も聞いていないことを早口に言い募る。 「おれは教授を捜してた。でも、どうしても居場所が分からなくて、そしたら、途中で穂高家の坊ちゃんがスマホに連絡してきたから、だから」 無言で、浩介の手が男の頭に伸びた。 容赦なく髪を掴み、引っ張り上げる。 「ぐ…っ」 苦痛の声と共に、男の声が止んだ。 咥え煙草のまま、しゃがんだ浩介は、無理やり上げさせた顔を覗き込み、 「なあ？」 煙を顔面に吹きかける。 せき込む男に構わず、言葉を続けた。 「お前の事情なんざ知ったことじゃねえんだよ。おれが知りたいのは」 言いさし、二度も言うのは億劫と思ったか、聞いていたかいなかったかを確認するように尋ねる。 「…なんだっつったよ、今、あ？」 ―――――がつん。 一度、浩介は床に男の額を叩きつける。 その手が、力んだ様子はない。 動作には、苛立ちは欠片すら感じられなかった。 浩介の態度は、面倒そうですらある。 暴力行為と態度の落差が、逆に薄ら寒く、慣れを感じさせる迷いない行動が、見る者の背中をひやりとさせた。 客席から、居合わせた女性客の小さな悲鳴が上がる。 構わず浩介は、すぐさま、その頭をまた髪を掴んで持ち上げ、 「そら、死ぬ気で考えな」 そしてまた―――――ガツン。 人間の頭部を、ボールのように扱う。 それを、先ほど、少女が為したより、軽々と片手でやってのけた。容赦がない。 その上、一つの同情も躊躇いもなかった。 両手足が自由であるはずの男は、抵抗もできずに為すがままだ。 その躊躇いない行動は、チンピラと言うのも生易しい、確実に玄人だ。 清掃会社のツナギを着ているのが何の冗談かと思う。 浩介は、淡々と言葉を紡いだ。 「そんで、死ぬ前に答えな。せいぜい、頑張れや」 その台詞の裏側に響いた声を、幾人が正確に聞き取っただろうか。 ―――――答える前に死んだところで、構いやしない。 浩介の、命などなんとも思っていない目に気付いたか、三度目、鼻血が散った時、 「―――――結城家だよぉっ！」 悲鳴じみた声が、男の喉から迸った。 「穂高の坊ちゃんは、結城家に用事があるって言ってた…っ、たぶん、連れて行くとしたら、そこだ！　だから、だから…っ」 勘弁してくれ、とすすり泣く男を、ゴミのように浩介は放り出す。 ゆらり、立ち上がった。 浩介を冷静に見上げ、欠片も動じていない少女が、不意に呟く。 なぜか、感嘆したような声で。 「なんと、…荒神かね。―――――というのに、『正気』とは」 浩介は聴こえていながら聞かなかったフリで、自分のスマホを取り出した。 「あのっ」 青くなりながら、大晴が身を乗り出した。 「ぼく、…義兄さんを連れ去った車の写真を撮ってます」 スマホを操作し、大晴は目的の画面を浩介に差し出した。 浩介は、すぐには手を伸ばさない。 探るように大晴を見遣る。目が合った。とたん、大晴は勢いよく頭を下げた。 「すぐ警察に連絡したかったんですが、このひと、こっちの女の子の連れみたいで、事情を知ってるみたいだったから、まずは聞いてからと思って」 それにまだ、ことが起きてから五分も経っていない、と大晴は付け加える。 浩介は大きく息を吐きだした。 彼がもう少し早く動いていれば、こんなことにはならなかったかもしれないと思ったからだ。 頭を下げたまま、大晴が言った。 「…事情は分からないけど、お願いです、義兄さんを助けてください」 「…言われるまでもねえよ」 億劫そうに、浩介は手を差し出しす。 頭を上げ、浩介の顔と、手を見比べた大晴は、おそるおそる、その手にスマホを乗せる。それを浩介が握り締めた途端。 ―――――画面に、ヒビが入った。 「あ、悪い」 「…い、え」 なんとなく、ぞぉっとした大晴を捨て置き、浩介は何かを逃がすように、長く深く嘆息。 自分のスマホを見下ろす。 そして、束の間、―――――逡巡。すぐさま、意を決したように画面を操作。 登録していた、ある番号を呼び出し、彼はスマホを耳に当てた。 相手は、数コールで出たようだ。 浩介は淡々と相手に呼び掛けた。 「―――――もしもし、山本です。会長？」 『会長』という言葉に、大晴が、あ、と声を上げた。 かつて大晴が雪虎と会話した時間などたかが知れているが、その間にも、一度、『会長』という単語を聞いたことがあったのだ。 その単語が誰のことを指すものか、単なる好奇心で昔、尋ねたことがある。それを思い出し、 「よかったぁ…」 電話の相手が誰かを察した大晴は、もう大丈夫だ、とまだ何も解決していないのに、何もかも終わったような安心感に包まれる。 力が抜けた。 その場にしゃがみこんでしまう。 女の子が不思議そうに見てくるのに、大晴は少し情けない笑顔を向けた。 「あ、もう大丈夫だよ。あの人が今、電話かけてる相手は、」 一度、言い方に困ったが、大晴はすぐこれしかないという言葉で告げる。 「月杜のご当主だから」 「…なんだと？」 彼女は、眉根を寄せた。 そう言えば、彼女は月杜家に向かう予定だったはずだ。 つまりは、月杜の人間を知っているということで。 続いた彼女の言葉は、確かに、月杜をよく知る者のそれだった。 「それこそ、論外だ。月杜家が、一般人の誘拐になどおいそれと関心を示すとは…」 言いさし、不自然に途中で言葉を切る。 「―――――まさか」 少女の目が、何かを察した色を宿すのに、大晴は頷いた。 「うん、そう、一般人は一般人だけど、義兄さんは」 言いにくそうに、大晴は声を潜める。 「…月杜家の遠縁の人なんだよ」 一度、少女は瞑目した。 その間に、ギョッとした態度で、彼女の連れ二人が顔を上げる。 「―――――今さっき、あちらの若者は、『トラ先輩』と言ったね」 慎重に少女が言葉を紡いだのに、なぜそんなに深刻な態度なのか、と言いたげな目で大晴は軽く答えた。 「ああ、義兄さんは、近しい人にそう呼ばれるんだ」 「…まさか、フルネームは、『八坂雪虎』かね」 大晴は女の子を見遣り、大きく目を瞠る。 「なんで知ってるの？」 大晴の返事に、少女の脳裏をよぎったのは、夏、一人の魔女がかけてきた一本の電話だ。 ―――――彼は、八坂雪虎と名乗りました。 善き魔女、オリビアは、覚束ない声だったが、確かにそう告げた。 忌々しい心地のまま、少女は鼻血を拭うこともせず呆然と固まった連れの男を睨みつける。 「いざというときは、…分かっているな？」 男は、がくりと肩を落とした。 彼らの様子に関心を抱いた気配もなく、浩介は落ち着き払った声で言葉を紡ぐ。 「緊急事態です。トラ先輩が連れ去られました」 電話向こうで漂うのは、沈黙。 ただ、空気の色が、一瞬で、変わった。 いっきに押し寄せた圧に、浩介は意識して丹田に力を籠める。 でなければ、それは、飄々とふてぶてしい彼ですら、気絶しそうな殺気だった。 背を冷や汗が伝うのを感じながら、浩介はあくまで事務的に言葉を紡ぐ。 「行先は結城家ということですが…トラ先輩を連れて行ったという車の写真が手元にありますので、今から送ります。ええ、ナンバーも映っています。事実確認をお願いできますか」 はい、はい、と何度か頷き、浩介は強く目を閉じた。 「分かっています。罰は、受けます。あのひとが無事なら。…無事でなければ、」