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日誌・159 あけすけに

× × × 月杜邸。その奥に位置する書斎。この屋敷では珍しい、洋室のひとつ。 秀はようやく口を閉じた。 忙しなく会話が続いていたスマホを、冷静に切る。 物静かな所作で、ことり、と机の上に置いた。彼の様子に、普段と比べて変化はない。 常のごとく、落ち着き払っている。一見、そう見える。しかし。 「失礼致します、旦那さま」 コンコン、と洋室の重厚なドアをノックした初老の男が、開きっぱなしだった扉の外で、恭しく礼をした。 「本日お越しになるお客人のもてなしの準備が整いましたが、いかがされ」 丁寧な口調が、不自然に途切れる。 微笑を貼り付かせた顔を、彼は可能な限り静かに上げた。猛獣を刺激するのを避ける態度だ。 「黒瀬」 日常的に和装の主人は、態度だけは平静に、椅子から立ち上がる。 「トラが攫われた」 聞くなり。 黒瀬の顔に過ったのは、様々な想いだ。 あり得ないことを聞いた、戸惑い。危機感。心配。だが、最後に残ったのは。 ―――――どこのバカが? あけすけに、その一点だ。 雪虎の存在は、月杜の弱点であり、同時に逆鱗である。 仕事中は、ほとんどの場合、雪虎につけている月杜家の護衛はいなくなる。もちろん、そんな存在があることを、雪虎は知らない。 許可もとっていなかった。だが、仕方がない。 雪虎に万が一のことがあれば、暴走した月杜家が何を仕出かすか分からないではないか。 それでも、月杜の息がかかった者が雪虎に割く護衛時間が、最小限にとどめられている理由は。 仕事中は、だいたい、山本浩介がそばにいるからだ。 日常生活面においては、御子柴か―――――あの死神・風見恭也がいるときは、月杜の護衛は外れる。 彼らはそれだけの実力者であり、彼らがそばにいる限り、雪虎に害が及ぶことはないと信頼されていた。 無論、浩介以外がトラブルメーカーだということも、重々承知の上で。 (そのため、結局、先日は死神の関係で誘拐されたわけですが、ね) とにかくそれは、過ぎた話だ。 黒瀬は微笑を崩さず、脳裏で現在の日時を思い出す。 今は、平日の日中。 雪虎は仕事で、昼休みの最中だ。いやそろそろ、休憩時間は終わった頃合いだろう。 黒瀬は内心首を傾げる。 (昼は、いつも山本さんと一緒にいたはずですが…) 何が起こったというのか。 秀は視線を、黒瀬ではなく、庭向きの大きな窓の方へ向け、告げた。 「実行犯は、結城の義兄だ」 声に力みはなく、ひどく淡白だったが、主人はきっぱり断定する。 黒瀬は机の上のスマホに目をやった。 この様子ならもう、いっさい調べがついた後だろう。 雪虎の身に何かが起こったと聞いて、秀が黙っているわけがない。本心は、今すぐにでも取り返しに行きたいはずだ。 つまり、いつ爆発してもおかしくない爆弾が、黒瀬の目の前にあるわけで。 もう火消は不可能なのだから、嫌でも慎重にならざるを得ない。 「では」 黒瀬は内心ため息をつきながら、眉をひそめる。 「正嗣さんが」 今は亡き、秀の妻、茜。 彼女の兄である結城正嗣は、結城家の当主であり、…現代において人の上に立つ者としては、多少愚かと思うほどの善人だ。 だが、結城家内部においては支える者が多く、何より、奥方がしっかりしている。 むしろ、正嗣のような人間の方が主として適した家と言えた。 ただし、外部に対しては、いささか心もとない。なにせ。 「…奥さまの死に対する恨みから、ですか?」 正嗣は、茜の葬式の席で、秀に食ってかかったことがある。 その上で、声高に叫んだものだ。 茜は愛される喜びを知らず、ただ子を産む道具として利用され、月杜家に殺された、と。 秀と茜、この夫婦の間に、男女の愛がないことは、傍目にも明白だったからだ。 ただ、もうひとつ、誰の目にも明らかだったのは、二人が互いに尊敬しあっていたことだ。 それは最高の友情の形とも言えたろう。男と女でなくとも、二人の間には確かに情が通っていた。しかし、正嗣の目に、それは見えなかったようだ。 理由は、正嗣という人間の、ある意味での視野の狭さに起因する。 彼には、もし、これこそが真理だと言われた教科書を一冊覚え込んだとすれば、そこから少しでも外れたことをすれば、それは間違っている、と絶対に受け入れないようなところがあった。 この場合には、『夫婦』の形はこういうものだという思い込みが正嗣の中にあり、秀と茜の在り様は彼が思う通りではなかったということが原因だろう。 月杜家に対して行き過ぎた行動ではあったが、秀は咎めなかった。それもあり。 妹の死が、相当に堪えたのだろう、と当時は正嗣に対する同情が多かったものだが。 ―――――こうなると、状況が違ってくる。 「さすがに…、結城家のご当主として、それは」 軽率。 言葉を濁し、絶句した黒瀬に、目を伏せた秀は説明を付け加えた。 「きっかけは、今日、結城家に訪れたという穂高の坊だろうね」 確かに先ほど、秀は『実行犯は』という言い方をした。 では企んだ者が別にいるということだ。黒瀬は記憶をたどった。穂高家と言えば、 「先代の奥方の遠縁、でしたね。そう言えば、本日でしたか」 月杜家とはさしてかかわりがないと、黒瀬の中で、穂高家の来訪は重要事項ではなかった。 第一、かの家は、気位が高い。 ゆえに、他家の月杜とあえてかかわりを持つ気はないだろうと推測できたからだ。 ただひとつ、不思議だったのは。 「現在、穂高家は急に見いだされた直系の孫の存在で、跡取り問題が表出しているはずですが。しかもその者は色濃く穂高の力を示しているとか…」 そのように、本家がすったもんだしているときに、 「特に本家へ影響力もない遠縁のものを訪れる理由はなんでしょうか。まさか穂高家の人間が、自身の地位の後押しのために頭を下げて助力を乞うなど、するはずもありませんし」 まして、月杜など眼中にないはずだ。 秀は無言で、窓辺へ近寄る。 その動きを見守りながら、黒瀬は言った。 「確かお越しになるのは、跡取りとして育てられた、穂高現当主の姉妹の孫娘の、…確か、弟君、でしたか」 情報を脳が吐きだしてくるままにつらつら並べ立てて行けば、いくつかの疑念が湧いてくる。 「姉弟の仲は悪くないようですが、弟に穂高の力は顕現せず、気位の高さだけは並外れていて、…鼻摘まみ者と聞いています。直系の孫だという者に対してどのような態度を取るでしょうね…そう言えば」 一番、気になる情報を、黒瀬は最後に挙げた。 「穂高家に、直系の孫を連れてきたのは―――――御子柴家とか」 言うなり、嫌な予感が、いっきに倍になる。 かの魅了の力により、御子柴家と言えば、世界各地の有力者と深い親交を持っていた。穂高家もその内の一つなのだろうが。 ちょっとした気紛れで、とんでもない悪戯を仕出かす傾向にあるのも、かの一族だ。 というのに、あとで悪びれなく「ごめんなさい」と謝れば、誰も強く叱れない上に制裁もできなくなるという、…つまりは手に負えない厄介者。 彼らが何かお遊戯を始めれば、頭を低くして嵐を過ぎ去るのを待つほかない。 その対象が今回は―――――穂高家という話。傷一つなく済むはずはない。 しかし、…だとして。 穂高家が結城家に何の話があって、結論として雪虎を攫うことになったのか、まったく事情が見えない。 結城正嗣が関わっているのなら、雪虎が月杜の関係者だと知っているはずだが、狙いは雪虎と関りがある御子柴さやかの方なのだろうか。いずれにせよ。 窓辺に立った秀は、明るい外へ手を伸ばした。それを、途中で止める。 伸ばした手で、ぐっと拳を握りこみ、胸元に引き寄せた。直後。 その全身から、おぞましいような闇の気配が立ち昇った。 御子柴大河が、それを見たなら、驚いただろう。 その闇は、かつて雪虎が眠っているときに大河が見た、祟りの成れの果てとよく似たものだったからだ。 ただし、規模が桁違いだ。 とたん。 平静だった秀の表情に、一瞬、苦悶が宿る。すぐ、それは掻き消えた。 秀は何事もなかったかのように踵を返す。 「着替える」 「はい」 表情も、声も、一筋の乱れもない。 だが黒瀬が横目に見た机の上は、さっぱり片付いていなかった。 雪虎が攫われたと連絡を入れてきたのが誰で、いつかは知れないが、それから秀は他の何も手についていないはずだ。 秀の視線からして、ひとつも今ここを見ている気配はなかった。 幼い頃から秀を知る黒瀬が察せる程度の変化でしかないが、心ここにあらずの態度で、秀は告げた。 「出かけるから、車の用意を」 ―――――結城家へ? などと、無駄な質問はせず、 「はい」 予定の客人には待ってもらうよりほかにない、と結論し、従順に頷いた黒瀬の横を通り過ぎながら、 「ああ、それと」 秀は低く命じた。 完全に、感情が抜けた声で。 「地下を掃除しておきたまえ」

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