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日誌・160 夕暮れ時

× × × 雪虎は心持ち、低く唸る。 いい目覚めとは言えなかった。頭痛が目覚まし代わりだったからだ。しかも。 両手が、背中で縛られている。 どんな恨みがあるのか、縄が皮膚に食い込んで痛い。指先が痺れる、とか言うことは、幸い、なかった。 どうやら、血流は止まっていない。腕が腐り落ちるようなことはないだろう。 だが、おそらく痕は残る。その上。 目覚めてからこっち、室内にいた女の存在が、重い。―――――存在感が氷山のようだ。 返事が返ることは期待せず、それでも、ダメもとで雪虎は声をかけてみた。 「せめて、縄は解いてくれませんかね。…逃げませんから」 彼女がまとう空気は重く、無表情で、冷ややか。 せめて少しでも刺々しければ、とっかかりもあるのだが。 完璧に感情を隠しきっている。しかも何も言わない。これは、やりにくい。 小柄。小さな頭。人形のように整った白い顔立ちは可愛らしい。 結い上げた黒髪は長く艶やか。和装。着物の襟足から覗く首筋が危ういほど細く、儚げ。 だが、全体の印象が、雪虎に負けず劣らず陰鬱で、うっかり手を伸ばすのを躊躇わせる雰囲気があった。 姿かたちは、なんとなく茜を連想させる女だ。 だが彼女と違って、柔らかみの欠片もない硬質な気配をまとっていた。 雪虎に対する拒絶、とでもいおうか。 (けど初対面、だよな。それにしては目を逸らさないから、俺の顔を一度見直すことを実行したってことで…) はじめて会う女、と思ったが、雪虎は思い直した。 それとなく、相手の顔を見直すなり。 ―――――ようやく、思い出した。 彼女は確か、さやかの同級生だったはず。 中学の頃は、おさげで眼鏡。ただし、とびきりの優等生だ。 中学の三年間、確か、成績は、万年二位だったはず。首位は常にさやかだ。 劣等生であり、自ら進んで劣悪な環境へ飛び込んでいった雪虎などとは無縁で、暴力や縄張り争いとも関わりがなかった、ある意味、別世界の人間だ。 彼女は、地元でも進学校へ進み、県外のいい大学へ進んだはず。いや待て。 (そうだ、この子、さやかと同じ大学に、…いたな) そうして、彼女は結局、地元へ戻り、―――――結城家へ嫁いだ。そうだ、彼女は。 結城正嗣の妻―――――結城瀬里奈。 なんとなく、気まずい。雪虎は、障子に目をやった。 気絶したのは昼だったが、今はもう夕暮れ時なのか、障子からオレンジの光が差し込んでいる。 その光を横顔に浴びながら、ようやく瀬里奈は紅をさしていない唇を開いた。 「それは、縄でなくビニールテープです、トラ先輩」 トラ先輩、と言った皮肉気な声に、雪虎はなんとなく察する。あ、これは、雪虎が自分を思い出すのを待っていたな、と。 しかも、一番の問題とは何の関係もない言葉だ。 そもそも、彼女には、雪虎を拘束から解放する様子が見えない。 「…いらない情報、どうも」 折角言葉を返してくれたのだ、どうにか乾いた声を返した。いっきに疲れた心地になったが。 彼女のことを忘れていたのは確かに悪いが、そうだ、昔から、彼女のことはどうにも苦手だった。 理由なら、なんとなく察している。 彼女は―――――憧れに似たものを持っていたのだ。さやかに。そして浩介に。 当時の学校において、さやかも浩介も、絶対的な憧れの眼差しを向けられる存在だった。必然的に。 あの二人が、一番に優先しようとする唯一の相手であった雪虎は――――――彼らに憧れる者に憎まれる羽目になる。 足を動かそうとして、雪虎はまた別のことに気付いた。膝と足首も縛られている。 見れば、確かに、ビニールテープだ。 (俺は粗大ゴミか何かか) 身体の下にあるのは、畳の感触。イグサの匂いがまだ漂っている。 土や砂利の上などでなくてまだ幸いだが、縛りあげられて放り出されているのには違いない。 横倒しになったまま瀬里奈を見るが、彼女は一定の距離を取ったまま動こうとしなかった。 当然だろう。 姿勢をどうにかしたいなら、雪虎が自分で足掻くしかない。 少し身じろげば、背中に、壁の感触があった。 縛られた腕の筋肉を使って、どうにか壁を伝って不自由ながらも身を起こす。苦労したが、座ることはできた。 途中、頭の痛みに顔をしかめれば、 「…頭を殴られたとか」 距離を置いたまま正座して、手を貸そうともしない瀬里奈は、それでも雪虎の表情の変化を敏感に察し、口を開く。 「夫は、医者に診せろ、と言いましたが」 その台詞にぎょっとなった雪虎には構わず、何の感情も浮かばない目で、彼女は言った。 「申し訳ありません。月杜に連なる方の身体を、そこらの医者に診せるわけにはまいりませんので、放置しております。悪しからず」 ―――――瀬里奈の選択は正しい。だが、悪意も確かだ。 思わず、雪虎の頬が引きつった。 それでも、一応、雪虎は礼を口にする。 「それはどうも」 今更ながら、思い出した。正嗣の妻は、才女と名高い。 (やりにくい相手だな) 実際のところ雪虎には、小さい頃から、かかりつけの医師がいる。月杜家の専属の医師だ。 嘘か本当か、雪虎には判然としないが、月杜家の人間の、血液や細胞は、『知っている』者以外に触れさせるわけにはいかないのだ、と小さな頃から説明を受けている。 ―――――人体実験などされたくないのなら、秘しておくべきだね。 とは、先代の言だ。 自分が、他と何が違うのか、雪虎に自覚するところはない。 それでも、知識がないものが下手に触れようものなら、危険でもある、とかつて、かかりつけの医師からこんこんと説教されたこともあった。 中学の頃、よく怪我をして帰った雪虎を、見かねたせいだろう。 そんな経緯もあり、分からないなりに、雪虎は、彼以外の医者を信用しないことにしていた。 …目の前の女は、雪虎を嫌っている。 それでも、最低限であれ、礼儀を払うのは。 彼の背後に月杜を見るからに違いない。だが、ならばなおのこと。 「…解せないな」 瀬里奈と正面から向き直り、雪虎は目をすがめた。 「月杜家に配慮するなら、俺にこういうことしてるのはマズいって思わないか?」 あまり考えたくないが、こうなった以上、秀がどう動くか、雪虎にも掴み切れない。 行動が、予想できないわけではない。彼は、きっと、真っ直ぐ動く。 雪虎が読み切れないのは、ただ一点。 ―――――秀がもたらす、破壊力だ。 彼は子供の頃から、常に冷静で、かつ、落ち着き払って大人びており、感情のままに激するということを知らないようだった。 月杜の当主に相応しくあれ、と厳格に育てられてきたからだ。 繊細なコントロールができる理性があったのは確かだが、力任せの抑圧もまた、秀には必要な手段であったろう。 最大限の努力の結果、彼は現在の彼になったわけだが。 そんな秀がもし―――――…考えさし、雪虎は、いやいや、とつい、苦笑いした。 まさか、あの秀のことだ。 理性を手放すようなことはしまい。 ましてや、雪虎のことなどで。

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