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日誌・169 見せしめ

× × × 浩介は、通話が切れたスマホを見下ろす。 唇から吐きだした温かい煙草の煙が、夜の秋風にさらわれた。拍子に。 きつい煙草の匂いの隙間に、どこからか忍び込んだ金木犀の香りが、ふわり、鼻先をくすぐる。 浩介は、通話が切れたスマホを見下ろしたまま、余韻に浸るように目を細めた。そのとき。 道路を挟み、正面にある古いビルの二階に、明かりが灯る。 顔をしかめる浩介。 いかにも億劫そうに、スマホをポケットにしまう。 うっそり顔を上げた。 ―――――そこは、駅近くの繁華街。 商店街の方は、空き店舗が増え、閑散としているが、こちらは夜も更ければ営業する店の明かりで賑やかになる。 ビルの壁にもたれていた浩介は、のそりと身を起こした。 眠たげな獣に似た所作。 次いで、またひときわ大きく煙を吐き出す。身体が重たそうな足取りで、前へ進んだ。 同時に、そこらの建物の影から、浩介を注視する視線が複数飛んでくる。 だが、きっぱり無視した。彼らが何者か、予測はつく。後始末要員だ。月杜の。つまりは。 (…好きにしていいってこと、だな) 彼らの存在は、月杜秀からの、その許可と言うわけだ。 浩介の唇に、一瞬、残忍な笑みが刻まれた。 今この瞬間にも受けている『罰』の鬱憤を晴らすためにも、浩介にとっては好都合。 基本的に厳格な秀は、失敗した者に、情けはかけない。 みすみす雪虎を攫われる隙を作った浩介は、罰を与えられた。 どんなものかと言えば、 (おれはしばらく、トラ先輩とは会えない。少なくとも、一週間は) 考えるだけで、胸にぽっかりと穴が開いた気分になる。最悪だ。 ―――――秀はよく分かっている。何をすれば、浩介に効果的か。 そう告げたからには、秀はその通りにするだろう。…おそらくは。 (あのひとはしばらく、トラ先輩を外に出さないだろう) そのように想像させる声で、秀は浩介への罰を告げた。ゆえに。 浩介には、気晴らしが必要だった。 前へ進む浩介の足が、次第に速くなる。 友達の家へ遊びに行く子供のように、待ちきれない、という笑みが、口の端に浮かんだ。 嬲っていいのだ。向かう先にある、身体を、生命を。そしてそれらは。 明確に―――――敵。 遠慮はいらない。加減はいらない。すでに浩介は、酔い始めていた。暴力に。 階段を一段飛ばしに駆け上がる。目指す事務所のドアは、もう目の前だ。 浩介は、鼻歌交じりに、ソレを思い切り蹴りつけた。 ―――――ガァンッ! ドアが、壁が、びりびり震える。派手な音が、ビル内に響き渡った。 案の定、鍵がかかっている。音の反響が消え去る前に、もう一度。 ―――――ドッ! 蹴りつけた。 とたん、鍵がかかっていたドアが、蝶番ごと吹っ飛んだ。 身構える間を与えるのは、愚策。 襲撃者の存在を明かした以上、畳みかけるに限る。 「な…っ、なんだ!」 戸惑いの声を上げながら、室内の人間が右往左往しはじめた。 動きにバラつきがある。統率が取れていない。寄せ集めだ。浩介は少し、がっかりした。 これは、期待できない。 だが、突き刺さる警戒や苛立ちは、浩介にとって心地いいものだった。 目を細める。 ドアの残骸を踏みつけ、浩介は無造作に足を進めた。 「よお」 咥え煙草のまま、古くからの知人にでも挨拶するように片手を挙げる。 緊張がいっさいない、自然体に、室内の男たちが目を見交わした。 飄然と乗り込んできた浩介は、ドアを蹴破って入ってきたにもかかわらず、まったく敵対的に見えない。 むしろ、男たちの仲間に見えた。 彼らの戸惑いなど頓着せずに、浩介は飄然と、 「で、幾らもらったんだ?」 唐突な問いかけ。 すぐには、意味を理解できなかったのだろう。 室内にいた、十数人の男たち―――――チンピラくずれが、顔を見合わせる。 いや、中の半数は、どちらかと言えばまともな社会人に見えた。つまりは暴力沙汰とは無縁の、真面目に生きていそうなサラリーマンだ。 どれだけ金をもらったかは知らないが、結果辿る末路は、はした金程度では贖えないだろう。 「余所者か? 地元連中か? なんにしたって、月杜に敵対なんて、…まず、バカだな」 出された名に、一気に、真面目そうなサラリーマンと見えた男たちの目つきが変わる。 浩介は立ち止まる。なんの緊張もなく、自然体で。 ただ、周囲には肌がヒリつくような警戒と殺意が渦巻いていた。 浩介が咥えた煙草の煙だけが、のんびりと天井に立ち昇る。 「ま、お偉いさんのご希望ってヤツでな」 浩介は眠そうに頭を掻いた。 そのわりに、目だけはぎらぎらと輝いている。 「見せしめになりな」 刹那、煙草をくわえていた唇が、笑みの弧を描いた。血が滴るような笑みだ。直後。 誰が動いたか、室内の明かりが落ちた。同時に、煙草が床に落ちる。 お国柄か、拳銃を好んで使う人間はこの場にはいないようだ。 ただし、そのほかの獲物は持っているだろうから、用心に越したことはないが。 どちらにせよ、―――――見えずとも、浩介には問題ない。 「はっは!」 普段の飄然とした態度が嘘のように、爆発するような乾いた笑いを上げて。 浩介は、思い切り床を蹴った。 素人相手は退屈だ。だがプロなら。 加減の必要もなく、力を思うがままにふるえるのは、浩介にとって得難い快感だった。 ―――――荒神の質だな。 かつて、雪虎に大けがを負わせた日の夜。 当時はまだ小さく、女の子と見紛うような美貌の持ち主だった月杜秀が、息が苦しくなるほど大泣きしていたみっともない浩介の顔を見て、冷静にそう告げた。 初対面の際、浩介は彼がどういう存在かは知らなかった。 雪虎が、月杜の遠縁に当たる人間ということを知ってはいたが、月杜家は雲上人。 ありあまる力を持て余し、暴力で家族を支配する男の息子が、簡単に接触を許される相手ではなかった。学年も微妙に離れていたため、この時まで、浩介は秀の顔を知らずにいた。 雪虎が嬉しそうに話す家族は、二人だけ。 『ばあちゃん』。それから。 『お姫さん』。 祖母と妹と言えど、どちらも血のつながりがなく、実の両親と妹とは、不仲であることを雪虎は隠していなかった。 ただ、月杜家のことを、雪虎が口にしたことはない。

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