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日誌・170 うばわないで
その日。
小学生だった浩介は、病院の廊下で一人、備え付けの椅子に座っていた。
一家が散り散りになったあの事件のきっかけがなんだったかは、浩介はもう覚えていない。
ただ、その日、怒鳴り始めた父が、浩介に手を上げ、庇った母を殴った―――――山本家にとってはいつもの日課だった光景が、何かの弾みに狂ったのは確かだ。
―――――自分の女が、浩介をかばい続ける姿が、癇に障った、と。
いつだったか、病院へ面接に行った浩介に、父は別人のように力のない声で言ったものだが。
何が本当かは、本人にも分かっていないはずだ。なにせあの時、父は。
…怒ってなど、いなかった。笑って、いた。
なんにしろ、執拗な暴力の標的となった母は、気を失った。
それでも父の拳は止まらず。
放っておけば、母は死んでいただろう。その、予感が。
ひたすら従順だった浩介の、何かを―――――壊した。
気付けば、浩介は気絶した父親の上に馬乗りになり、何度も加減のない拳を振り下ろしていた。
母が、父にしたのと同じように。
…放っておかれていたなら、今度は。
浩介が、父を殺していたはずだ。
そこに、割って入ったのが。
雪虎だ。
この日、学校帰りに、二人は約束をしていた。
学校からいったん帰ったら、また、出て来い、と。
いつもの場所で、待ち合わせて、遊ぼう、と。
いつまで待っても来ない浩介にしびれを切らせた雪虎は、浩介を迎えに来たのだ。そこで出くわしたのが。
浩介が、父親の命の火を消しかけている場面で。
雪虎は、浩介を止めようと動いた。なのに、浩介は―――――邪魔をするな、と。
雪虎を殴りつけた。
悪いことが、重なって、重なって、重なり続けて。
なのに―――――それでも。
雪虎は、諦めなかった。
浩介を、諦めてくれなかった。
浩介の拳を、雪虎は受けて立って。痛めつけられながらも、なお、…諦めなかった。
…おかげで。
浩介は、ある瞬間、ふっと理解した。理解して、しまった。
今、自分がいったい、何をやっているのかを。
カッと煮えたぎっていた頭が冷えた、その刹那の、…最悪の気分と言ったら、ない。
実際、少し、嘔吐した。
なによりもっと、悪いことには。
そこまでしておいて、浩介は、自分だけは死ぬつもりがなかったことだ。ただ。
暴力の渦に呑まれるがまま、火になってしまいたかった。
その誘惑に乗ることは、浩介の腹の底に眠る無視し難い歓喜を掻き立てた。なのに。
…それ以上に。
雪虎が自分を呼ぶ声が、無視できなかった。
雪虎が浩介を必要としている、その事実の方が、火になって燃え尽きる以上の歓喜を、浩介にもたらして―――――総身が震えた。
混乱しきって、小さく蹲った浩介に、雪虎は何も言わなかった。
慰めも、励ましも、恨み言も。
ただ、浩介から離れようとしないまま、雪虎は救急車を呼んだ。
この時の雪虎は、躊躇いなく、加減もなく、暴力をふるった浩介が、恐ろしくはなかったのだろうか?
それを、浩介は雪虎にずっと聞けずにいる。ただ。
到着した救急車の隊員が事情を理解し、警察を呼んだり、雪虎の家や浩介の叔父に連絡を入れたり、とせわしなくしている間にも、雪虎は黙って浩介に付き添っていた。
どうにか救急車に乗り込んだところで、雪虎も卒倒―――――何か所か骨折していたのだ、激痛によく耐えたものだ。
その後の成り行きは、今でもよく思い出せない。
気付けば、病院の冷たい廊下でソファに腰掛け、浩介は一人でわあわあ泣いていた。
小さな子供が一人で放置されることは、本来ないはずだ。
が、おそらくは、まだ子供に過ぎなかった浩介の中の、隠しきれない気質が表に出ていたに違いない。即ち、荒神。
何度も何度も殴りつけた父親の返り血で衣服を汚した、傍から見れば、凄惨な姿の浩介に寄ってきたのは、ただ一人。
月杜秀。
彼を見るなり、涙は引っ込んだ。
その端麗さに驚いた、というわけではなく。
単純に、彼がまとう空気が、恐ろしく異質だったためだ。
本当に同じ、生きた人間かと疑った。
その威圧。
存在感。
ともすれば浩介を上回る暴力性。
それらを濃密に気配に凝縮した彼がまるで、怨霊のように感じた。
―――――とんでもないことを仕出かしたね。
思えば、子供の頃から、彼はこう言った口調だった。
―――――君が家族にしたことは、どうでも良いよ。ただ、八坂雪虎はダメだ。
浩介は青ざめた。
秀の態度が、浩介を切り捨てる素っ気なさに満ちていたからだ。
彼は、できる。やろうと思えば、なんでも。
―――――アレに血を流させた罪は重い。幸い、アレ自身が気を付けていたようだったから、他の誰も大事には至らなかったが…。
淡々とした口調。
だが、冷静な仮面の裏で、秀がどれほど怒りを堪えているか、また、それが表に出ればどれほど悲惨なことが生じるか、直感して、浩介は言葉をなくした。
同時に、気の毒にも感じた。
彼は、心のままに振る舞うこと、子供なら当然の、その程度のことすらしてはならないのだ。
彼は素っ気なく告げた。
―――――今日を境にもう二度と、君をアレに会わせない。君から彼を守りたいなら、それが最適だ。分かるね?
容赦なく浩介を断ち切るように、秀が踵を返すなり。
―――――待って!
浩介は咄嗟に、全力で叫んだ。
泣きすぎて嗄れた声で。
秀は、足を止めた。それでも、振り返らない。とたん、浩介の胸の内が氷でも押し当てられたように冷えた。
これは、たった一瞬の機会なのだ、と。
ここを逃せば、もう次はない、と。
心の底から理解し、焦燥感に駆られた浩介は。
よろけながらソファを降り、床へ頭から飛び込むように土下座した。
―――――なんでもします!
そうだ、その通りだ。なんにせよ、ある意味、秀が言ったことは正しい。
雪虎は、今日の事態に無関係だった。
生じたことは、山本家の、家族間の問題で。雪虎は他人だ。
それなのに、咄嗟に割り込んだ雪虎も、自業自得と言えなくもないが。
脳裏をよぎったのは、真っ直ぐに浩介を睨む、雪虎の目。
浩介の―――――息子の暴力で気絶した父親の前に、彼を庇うように雪虎は立ち塞がった。
彼に、大怪我をさせたのは、浩介の責任だ。
あの瞬間、ちゃんと分かっていたのに。知っていたのに。
雪虎は、―――――浩介を守るために動いたのだと。
なにせ、あれ以上やってしまえば、浩介は。
父親の命を奪っていた。
ただ、これほど追いつめられた時になって、浩介は直面してしまったのだ。
父親の死の予兆に、歪んだ喜びを抱いた自分の本音に。
母親を守る、その言い訳の裏側で、実際には―――――何を、望んでいたのか。
―――――なんでも、しますから。
嗄れた声では、情けないほど弱々しい響きしか宿らなかったけれど。
―――――トラ先輩を、うばわないでください。
秀は、黙っていた。
当時、緊張で芯まで強張っていた浩介にとって、彼の沈黙は本当に長かった。だが。
―――――本気で願うなら。
言いながら、ゆっくりと振り向いた彼は、厳格な表情をしていた。
―――――命をかけたまえ。
その日、ある提案を受け。
快諾した浩介は、翌日には、提案通りの施術を受けに月杜家を訪れた。
秀の、提案とは。
雪虎が死ねば、浩介も死ぬように、二人の命を、つなげること。即ち。
ずっとそばにいる浩介が、雪虎に手をあげた時、雪虎が死ねば、浩介自身も死ぬ。
ただし雪虎には、浩介の死は影響しない。
どこまでも一方的で、かつ、単純で分かりやすい提案だった。
浩介が、雪虎のそばにいる、そのための、これが条件だった。
ただし、浩介は、それを決して一方的とも、悲劇とも思わない。
どころか―――――ご褒美だ。
秀には感謝している。なにせ、これで。
浩介は決して、雪虎に置いて逝かれない。
一人、残されずに済む。
だから。
浩介は、突き抜けるような暴力性を抱きながら、狂わず居られる。普通の顔で、普通の生活だってできた。耐えられる。
本来―――――生と死がぎりぎりで鎬を削り合う、命燃え盛る狭間が。
一番、浩介が生きていると感じられる場所で。
ゆえに。
(死神の意識を引いてしまった)
雪虎を迎えに行っただけの、ただの後輩だったなら、風見恭也は浩介に目を止めたりしなかったはずだ。
バイトの真也など、恭介は意にも介さなかった。
恭也の姿を見るなり、気配を感じるなり、浩介は察した。
こいつは、同類だ。
同じことを、恭也は浩介に感じたに違いない。
こいつとは話し合えない。
交われない。
言葉は無駄。
できるのは、楽しめるのは、暴力だけだ。
…時折、こうやって。
秀に、血と暴力で会話する場所を与えられることは、本当に助かる話だった。
―――――ふらり、階段を降りていきながら、浩介は煙草に火をつける。
(今回は、銃がなかった分、簡単だったな)
舐めすぎだろう、とは思うが、…まあいい。少しは、楽しめたのだから。
正直、不完全燃焼もいいところだが、この程度の規模なら、仕方ない話だ。
ビルから浩介が出て行くのと入れ違いに、闇の中、気のせいかと思うほど薄い気配をまとった影が、複数、中へと消えていく。
煙草の煙を吐きながら、浩介が見上げた空にかかるのは、三日月。
浩介は、ぽつり、呟いた。
子供のように、素直な声で。
「あー…、会いてぇなぁ」
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