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日誌・171 粛清
× × ×
「…まさか、月杜さまが直接お越しくださるとは」
目の前にいる初老の男の腰は低い。小柄な体も相まって、やたら卑屈に見える。
その割に、眼差しは針のように鋭い。
平日の、夜間。
突如訪れた若造に、怒るでもなく、さりとて歓迎するでもなく、不快を表すでもなく。
身内か、はたまた雇われ者か、未だ成人していないだろう美しい少女に迎えさせ、立派な家の客間に通し、寝間着のまま腹の据わった態度で秀と向き合ったのは。
表向きは立派な会社の取締役だが、裏では荒事を取り仕切る実力者だ。
昔から、この辺りの地元一帯に目を光らせ、荒くれ者たちの首根っこを掴んでいる。
ただ。
秀は、改めて正面のソファに胡坐をかいて座る男を見遣った。
昔を考えれば、随分年を取った。
もう引退時期ではあろうが、未だ、隠然と権力を握り、他者を圧している。
役所の人間など、どんな弱みを握られているものか、煙たがっているくせに、彼が一言口を挟めば震えあがるものだ。
この男は、今ではもう絶滅しかかっている類の、昔ながらの実力者と言える。
「はて」
晩酌をしていたか、猪口を手に掲げ、それ越しに、彼は秀を見遣った。
「騒ぎに関わったものは、どこまでどのような『おいた』をしたものですかな」
何も言わずとも、全て察している風情。
好々爺とした表情の中で、瞳だけが、蛇の印象。油断すれば、じわじわ絞め殺されるだろう。
小柄な体を上質のソファに預け、吹けば飛ぶような骨と皮だけの外見ながら、決して折れない太い柱を思わせる。
向かい合い、勧められたソファに悠然と腰掛けた秀は、淡、と一言。
「断りを入れに来た」
「ふん?」
意外、と言いたげに、その目が瞠られた。意表を突いたか、一瞬、子供めいた幼い顔になる。
「頼み、もしくは、お叱りではない?」
頼みとは、問題に関わった全員の粛清を依頼する、ということだろう。
叱責とは、月杜に関わる問題が起こることを事前に察していただろうに、止めなかったことに対するものだろう。
男が言いたいところは察したが、秀はゆるりと首を横に振った。そんなもの、意味はない。
「始末をするなら」
大きな右掌を上向け、秀は右腕を前へ差し延べた。
「―――――己の手で」
ぐ、と差し延べた右掌を、強く握りこむ。
「ほ」
拳に宿る力にか、いっとき、男は目を丸くして。
にたぁ、と笑った。
「さすが、月杜さま」
褒めているのか貶しているのか、はたまた愉しんでいるのか。
「では今から夜明けまで、ワシは目を閉じ、耳を閉ざしておきましょう」
しおらしいことを言った男に、
「邪魔をするならそれでも構わないが」
どうでもよさそうに言いながら、秀は立ち上がった。
「できればお前を潰すのは避けたい。勢力図が変わるのでね」
告げられた、刹那。
初老の男が、すっと真顔になった。だが、すぐそれは掻き消える。
秀は今、目の前にいる相手を、邪魔をすれば消す、と容易く言ってのけたわけだ。
侮っているにもほどがある。
だが、男はそれ以上の感情の変化を見せなかった。
ただ、承知、と言わんばかりに深く頭を下げる。
秀は挨拶もなく、踵を返す。
控えていた二人の若い男が、彼の後に従った。
彼らを、最初に案内した少女が先導し、玄関へ去っていくのを見ながら、同じく初老の男の後ろに控えていた青年二人が憤然と呟く。
「よろしいのですか。あのような暴言、」
「放っておくのはいささか、」
だが、うるさいと言わんばかりに、男は吐き捨てた。
「―――――月杜には許される。可能だからだ」
大きな音を立てて、男は空の猪口をガラステーブルの上に置く。
その指先が、わずかに震え、汗をかいている。
「今ここで、あの若造は、ワシらを無理やり、言うなりにさせることだって、可能だったよ」
月杜は、その言葉に、強制の力を持たせ、相手を命令通りに動かせることもできる一族だ。
あの鬼気に気付かず居られるとは羨ましい話だ。
かくいう彼も、昔はそれほど思わなかった。
ただ、歳をとり、あの世が近くなればなるだけ、月杜の異質さをやたらと強く感じるようになってきたのだ。
果たしてあれは本当に、生きた人間なのだろうか。
「まったく、年寄りをいじめないでほしいものだ」
控えていた青年たちは黙ったまま目を見交わす。
「ワシに断りを入れたということは、今回、北の連中に関わったヤツらは全員、総入れ替えになるだろうなぁ。それこそ、勢力図が変わる。頭が痛い話、その後始末のためにワシに顔を見せに来たんだろうよ、月杜の御方自ら」
苦々しい声を放ち、男は大きく息を吐きだした。
不満げながら、控えていた青年二人は何か言いたげな空気を引っ込める。
「…そうだよ、自ら、だ。ふん、おかしいな?」
「何がでしょう?」
首を傾げた男に、そろそろ片づけを、とソファを回りこんできた青年が尋ねた。
片付けられる猪口を目で追いながら、男は慎重に言葉を紡ぐ。
「月杜のてっぺんに立つ御方ってのは、通常、屋敷の奥から動かない。その性質上な」
「性質、ですか?」
「…やべえんだよ、色々。先代の方をよく知ってるが、…まあ、なあ…」
多くは語らず、男は苦々し気に言葉を濁した。
「自覚しているからこそ、どうしても外せない席には出席するが、『自ら』の意思で動くのは本来、ない話だ。それが動いたってこたぁ…」
不意に、男は遠い目になる。
「まさか、本当に『いる』のかね」
だが、その顔に好奇心はない。
多くは語らず、くわばらくわばら、と首を横に振った。
気を取り直したように言う。
「ま、今日のことは、面白いコトが起きてんなあって事態を放置したツケだろうな。さて、今回動いたヤツら以外で『使える』のはどれくらいいたか」
これから起こるだろう、凄惨な騒動を、もう終わったことのように言って、男が動き出すのを感じながら、秀は屋敷を後にした。
車の後部座席に乗り込み、走り出すのを身体に感じながら、秀は黙然と目を閉じる。
―――――どうやら、世間というものは。
(定期的に粛清を行わなければ、愚か者の芽はそこかしこに芽吹くようだ)
考えてみれば、秀の父は、穏やかに微笑む裏で、定期的に『見せしめ』を行っていた。
だが秀に代替わりしてからというもの。
凶事が一度もなかったわけではないが、自ら秀が乗り出したことは一度もない。
常に受け身であり、火の粉を払った、それだけのことだった。
しかし、その行いの結果が。
今回の、出来事なのだとすれば。
(態度を改める必要があるな)
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