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日誌・172 幾重もの注連縄
(態度を改める必要があるな)
『したいこと』ではないが、さりとて『したくないこと』でもない。
正直言えば、どうでもいい。
暴力の解決は好まないが、必要なら、するだけだ。
月杜の勢力が弱まれば、もっと自由にコトが運べるようになると、勘違いしている輩はどこにでもいる。
政界、財界、―――――特に、強い影響下にある地元の人間は。
そうして放置した結果、月杜の周囲に燻っていた不満に、穂高家はつけこんだのだ。
月杜家は簡単にひっくり返るような存在ではないが、手を打つのが遅れたなら、痛手は負ったろう。
そう、今回は目に見える結果としてなら、雪虎の周囲で起きた騒動に限られる。
しかし、実態は。
(周囲の動きがきな臭い)
今まで順調に進んでいた取引が些細なことでつまずいたり、長引いたり。
いつも窓口となる担当者が交代させられていたり、月杜の仕事全般に関して、支障が出ていた。
わずかな支障は齟齬を生み、焦りを生み、やがては混乱の渦になる。
些細なことも一時期に重なれば、不自然だ。何者かの作為が疑われる。
それらがうまく機能していれば、もしくは、些細なこと、を放置していれば、今回の結城家の行動にさえ、月杜本家は動けなかった可能性がある。
この騒ぎの本当の狙いはそこ―――――月杜家に足枷をはめること―――――だったのだろうが。
秀の眼差しは、すっかり温度をなくしていた。
―――――どいつもこいつも、
(やり過ぎたな)
今回ばかりは、徹底的にやり込める必要がある。
力で圧するだけで事が済むならいいが、世の中、そうそう原始的なルールを押し通せるものでもない。
今回は、純粋な『力』以外のものも必要だ。…でなければ、また。
―――――雪虎が。
秀は眉をひそめた。
今回、よく耐えたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
あの場にあったすべてが、耐え難かった。叩き潰してしまいたかった。堪えたのは。
雪虎の目があったからだ。
彼は、容赦ない男だ。が、残忍ではない。
なにより、…命を貴ぶ。すべての命を。
月杜秀にとって、尊ぶべき命はひとつだけだ。他は、己自身も含め、さして意味の違いはない。雪虎と秀では、根本から考えが違った。
ふいに、秀は幼い頃を思い出す。
屋敷の奥。さらに、幾重もの注連縄に囲まれた、狭い中心。そこで。
小さな秀は、座して何かを待っていた。何をかは、今でもよく分からない。
毎日訪れる父を、だったか。それとも。
未だ見たこともない、外の世界を、夢見ていたのか。
秀は、産まれてからずっと、そこで過ごしていた。外へは、出られなかった。
思えばそこは、母親の胎内のような場所で。
食事も必要なければ、排泄もまた必要なかった。
そこにいれば、ただ生きるだけなら問題はなかったのだ。…快適ではあったのだろう。
それでも、どうしても秀は外へ出たかった。だが。
月杜の血肉に祟りは染み付いており、そのうえ、月杜独自の鬼の力を幼い彼は扱い兼ねていた。
先祖がえりとも言われるほど力の強い秀が、万が一、そこから出ていたなら。
何も知らないまま犠牲にした命は、どれほどの数に上ったろう。
父だけが、秀に毎日顔を見せた。
秀は毎日、父に、尋ねた。
出てもいいか、と。
―――――閉じ込めているのは、父の力だと察していたから。
当時は、父の力に秀は太刀打ちできなかったのだ。
確かに秀は、歴代当主の中でも、別格の力を持っている。ただし、いくら強大な力を持っていたとしても、使えなければ意味はない。
いつだって、父は、困ったように笑って秀を見た。
周りを傷つけずにすむようになったら、出てもいい、と。
ただ、当時の秀の意識は、夢の中を漂うようで。
あまりはっきりとは、覚えていなかった。自分が何を考えたか、まして、どう答えたか、など。それでも。
―――――ひとつだけ。
たったひとつ、はっきりと、記憶に残っていることがある。
雪虎と初めて会った日のことだ。
月杜家先代当主の父しか訪れられないようになっていた、秀の居場所へ。
ある日、何かが、逃れるように、隠れるように、ひっそりと忍び込んできた。それは、小さく弱い印象の生き物で。
何かに怯えているようだった。
ただ、座して動かない秀にすら、臆して。
一定の距離を置き、警戒する、というよりも、隠れるように、立ち止まり、小さくなった。
その容姿は―――――ひどく醜かった。醜かった、のに。
秀は目が離せなくなった。視線を奪われた、刹那。
夢見心地に、苛々とささくれ立っていた秀の心が、すぅと静まった。とたん。
鼻先で、バチン、と水の泡が弾けたような感覚があって。
秀の視界に映る世界が、鮮やかに色づいた。
その、忍び込んできた小さな生き物が、…雪虎だ。
目を逸らさなかった秀から、一度、彼は逃げるように顔を背けて、踵を返そうと、した。
だが、逃げる先にいるナニかに怯えたように、竦んで。
迷うように…結局、秀の方へ、顔を戻した。とたん。
目を伏せたままの雪虎の面立ちに、秀は目を瞠った。
…寸前までと、まったく印象が異なる容姿の子供が、そこにいたからだ。
すぐに秀の目は、雪虎の中に潜む祟りの種を見つけた。そして、それが。
―――――秀の父が、与えたものであろうことも、理解した。
目の前にいる、幼子は。
やせっぽちで。みじめで。あわれな。
いじめられたような表情で、それでも、可愛らしい顔立ちをしていた。
最初、知識としてしか知らない、女の子かと思ったものだが。
大きく息を吸って、覚悟を決めたような雪虎が、キッと秀を睨みつけてきた眼差しの強さに。
男の子だと理解した。
彼は、自分の胸元を握り締め、挑むように尋ねてきた。
「お前、だれだよ?」
とたん、雪虎は、ふ、と驚いたような表情になる。すぐ、ぐ、と唇を噛んだ様子に、秀は察した。
おそらく、雪虎は悔しくなったのだ。
恥ずかしかったのだ。
自身が放った声の弱さに。
秀は、彼が胸元を握り締める手を見つめた。あれは、おそらく。
縋る、何かがほしいのだ。
けれど、縋るモノがないから、…ああやって。
何も言わない秀に、雪虎は分かりやすく狼狽えた。その顔が、探るような表情を浮かべたかと思えば。
「…なあ」
おそるおそる、身を乗り出して、雪虎は尋ねてきた。
「大丈夫か? なんでここに、一人でいるんだ?」
答えない秀に、次第に瞳が心配でいっぱいになり、不安げに周囲を見渡す。
「ここ、暗いし…静かだし。あ、静かなのは、いいけど」
うろうろと視線を泳がせたそのとき。
雪虎、と誰かが彼を呼んだ。気付けば、秀の父が、雪虎のすぐ近くにいた。
あ、と声を上げた雪虎は、すぐ、彼に訴えた。
「あの子、こんなところで一人なのは何でですか? 罰ですか? ゆるして、あげられないんですか?」
―――――許し?
なぜだろう。特に、秀は自身の境遇を罰だなどと思ったことはないのに。
雪虎が口にしたその言葉に。…なぜだか。
雪虎の言葉に、父が何と答えたか、秀は覚えていない。ただ、なぜか、雪虎が泣きそうな顔になって、首を横に振った。
「そんなのかわいそうだ。ゆるしてあげてください、とうしゅさま。俺も、謝るから」
そのまま勢いよく頭を下げようとした雪虎を、柔らかく制して。
まだ、小さな背中を、父はそっと押して、外へ出るよう促した。
大丈夫、すぐに、あの子は外へ出られるよ。
そう、告げて。
実際、雪虎が迷い込んでから、そう日が経たないうちに、秀は。
奥の間から出ることを許された。
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