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日誌・173 もうそれが、それだけが

なぜ、あれほど難しかったことが、これほど簡単にできたのか。 秀に起こった変化と言えば、一つだけだ。秀はただ、願った。 会いたい、と。 雪虎と呼ばれたあの子に、また。 それは幼子ゆえに純粋で、一途な願いだった。たとえ、根っこにあったのが、興味本位や好奇心であったとしても。 またもう一度、雪虎と会ってみたかったからこそ、秀は自由を求めた。 それが、功を奏したのか。 あれほど難しかった力の制御を、気付けばいとも容易く秀は行っていた。ただ。 そのための原動力となった、雪虎に会いたいと願う、渇望は。 幼い心にとって、すぐ。 …酷い―――――重荷となった。 なにせ、外に出てからも、ずっと。 秀の心の向きは、雪虎にだけ、真っ直ぐに進んでいて。 せっかく、自由になったのに。 なんでもできるのに。 すべて許されているのに。 秀は何一つ、自由ではなかった。 雪虎が憎くなるのは、すぐだった。 どうして。 ―――――あの子は、私を縛るのか。 父が、雪虎を特別扱いするのも、納得できなくて。 許せなくて。 なのに、自分の心からあの子を決して外せないのだ。すぐにわかった。父も、そうなのだと。 気付けば、雪虎のすべてが疎ましくなっていた。 それでも、視線は必ず、雪虎の姿を追っていて。 雪虎が、だいじにしているという小汚い少女に向ける、表情を見た刹那。 たちまち、すべてがひっくり返った。 引きずり戻された。 あの時、はじめて雪虎を見た日へと、心が。 雪虎には、どうあってもかなわない。 完膚なきまでに、秀は敗北した。 否、勝ち負けなどどうでもいい。秀はもう、骨の髄まで理解している。 雪虎が雪虎として、生きて、そこにいる。もうそれが、それだけが、秀にとってのすべてなのだ。 「…旦那さま、よろしいですか」 助手席に乗っていた男が声をかけてくるのに、秀は目を開いた。 「なんだね」 「穂高の若君は、もう本州方面に出て―――――無事、故郷へ向かっていると連絡がありました」 秀は、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。 助手席の男は、事務的に言葉を続けた。 「穂高家に、戻った暁には」 「手筈通りに」 ぞっとするような秀の声にも、臆することなく、月杜家に代々仕える男は頷く。 「了解しました。穂高家が始末に動く前に、月杜の者の手で片付けます」 月杜の手で始末したいなら、なぜ、わざわざ穂高家へ返すのか。 そのように思われそうだが―――――まずは穂高家へ戻すことに、意味がある。 秀は明かりが流れていく窓の外へ目を向けた。 雪虎は、こちらへ向かう前に、かかりつけの医師のところへ預けている。 付き添いを一緒にいた者数名に頼み、秀が踵を返したところ。 ―――――どこ行くんだ…いや、ですか。 雪虎は、秀の前に、立ち塞がった。怒った顔で。だが。 いつも強い印象の目に浮かんでいたのは、心配だ。 幼い頃から、ああいった表情は変わらない。おそらく、雪虎は察したのだろう。 秀にとって、これからが今日最大の仕事の仕上げの時間だと。 ―――――用事はもう終わったんじゃないんですか? 訊きながらも、どう言えばいいのか分からない、と言った態度で、雪虎は言葉を不器用に紡いだ。 終わった、と言えば、じゃあこのまま秀と一緒に行く、と返され。 診察があるだろう、と言えば、終わるまで待っていろ、と来た。 危険な場所へ、雪虎を連れて行きたくはない。 内心、ほとほと困っていると、雪虎は真っ直ぐな目で、核心をついてきた。 ―――――危ないこと、しに行くんじゃ、ないだろうな。 その表情を思い出し、温かな心地になった半面。 車の中で、秀は独り言ちた。 「…トラを蹴った、だと」 呟きと共に、車内の空気が、凍えるほどに、冷えた。 秀の身を案じる雪虎の顔に、自身を傷つけた相手に対する恨みなど、もう微塵も残っていなかった。 殴り返して、彼の中では本当に、それで終わったのだ。 雪虎は一度やり返せば、もう、尾を引かない。ただし。 秀は、そうではない。 …秀が答えるまでは引かない、先ほどの雪虎は、そんながんとした態度で立ち塞がった。 彼が、真正面から、じっと秀の目から視線をそらさないのは、珍しい。 秀がすぐに答えなかったのは、そんな雪虎の表情を、もう少し堪能しようと思ったからだ。 だが、なぜそんな表情を雪虎が浮かべるのかは分からなかった。 だいたい、普段の雪虎の反応と言えば。 基本的に、秀を疎んじている。 なのに、その時の雪虎からは、秀から距離を取ろうとする意思を感じなかった。そのせい、だろう。 気付けば、手が伸びていた。 右手で、そぉっと頬に触れれば、ぴくりと雪虎の肩が揺れる。 戸惑った態度で、彼の視線が振れた秀の手がある方へ動いた。 秀は触れた指先で、頬の輪郭を撫で下ろすように、して。 雪虎の顎を掴んだ。そのまま、当惑した顔を上向かせ―――――…。 触れた、感触を思い出した秀は、車の中で、ふ、と指の甲で唇の輪郭をなぞった。 正直なところ、雪虎に害をなした相手は、すべて消し去りたい。なにせ、彼らは。 秀から雪虎という存在を、奪う可能性があったからだ。 その根にあるのは―――――恐怖だ。 笑うしかない。 鬼だなんだと恐怖と畏怖の対象でありながら、月杜秀は、たったひとりを失うことが耐えられないのだ。 だが、中学の頃、無茶なことをやらかしていた雪虎には、相当敵も多い。 もし、秀が。 気持ちのままに行動し、そのいっさいを片付けていれば、今頃、雪虎と同年代あたりの人間は、地元では不自然なくらいに数を減らしていただろう。 ゆえに、秀は耐えた。 子供の頃から、ずっと。 消し去りたい衝動を、堪え続けた。 だいたいそんなことは、雪虎は望んでいない。それを思えば黙っていることもできたのだ。だが、今回は。 穏やかだが、凍った刃のような声で、秀は続けた。 「いくら殺しても殺したりないが…仕方ないね」 たった一度、殺されるだけで済むならば、優しい方だろう。

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