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日誌・192 壮絶ながんじがらめ
「誰が、…そんなこと」
思わず息が上ずった。咄嗟に、雪虎は語尾を飲み込む。
秀は難なく答えた。
「その鬼がだ」
―――――意味が分からない。なぜだ。
「祟りになるほど恨んでいるのに、それでも守ろうとしたんですか?」
この土地を? 辻褄が合わない。
「想像だが、…それが、亡くなった伴侶の望みだったのだろうね」
壮絶ながんじがらめだ。
最愛の者との約束が、それではまるで、呪いそのもの。
なんにしたって、その仕組みにわずかでもほころびが生じれば、この地は。
一巻の終わり。
「ゆえに術式は強固に組まれている」
それはそうだろう。
砂粒ほどの傷がついても、壊れるようなものならば、この地はとうに滅んでいたに違いない。
だからと言って。
暗がりの中で、「電気をつける」と明かりをともすことができるからと言っても、仕組みの詳細など知っている者は少ないように、その術式とやらも正体が知れない。いや、雪虎が知ったところでどうにかできるものでもないのは分かっているが。
どうあっても、不安感は残る。ただ、同時に。
―――――ああ、だからか、と今更になって、雪虎は理解した。
月杜家の人間が、主をはじめ、基本的に遠出しない理由。
彼らは歩く災厄なのだ。そして。
…おそらく彼ら自身が、術式における―――――最大の装置。生きた、歯車。
「安心したまえ」
秀の表情は、相変わらず乏しい。それでも、その目が。
最大限の優しさを浮かべている。
雪虎から不安を取り除きたいのだろう。
困ったように様子を窺っている。考えている。何を言えばいいのか。どう行動するべきか。
…ここで。
(―――――頷いてやれば、嬉しそうになる、んだろうな…)
多分、正解はそれだ。
喜ばせたいのも、正直なところだが。
この平和が誰かの犠牲の上に成り立つと聞けば、安穏と胡坐をかいている自分を殴りたくなるのは、自己満足の類だろうか。
それでも、思ってしまう。
(放り出してしまえばいい)
だがそれをすれば、秀たちの命が危うくなるのではないか。
この地への束縛は、むしろ、月杜家が安全に暮らすために必要なものなのではないか。
周りが危険というだけ、ではなく。
先ほど秀が話したことが事実なら、この地は気が遠くなるほどの長い間、火の上で綱渡りしている状態だったわけだ。
ただ、それを根っこから取り去ろうと、思えば。
自然を捻じ曲げた原因から、滅ぼさなくてはならない。
状況が歪んだ原因、―――――それは。
祟り。
月杜家、そのもの。
下手をすれば雪虎には、それを無に還す力がある。
そのことを、証明もしてしまった。
どうやればいいか分からないのは、危険であると同時に、雪虎に安堵も与えた。
いつどんな拍子に相手を消してしまうかもしれない恐怖があれど、
(方法を、知らないまま…目隠しがある方が、まだ安心だ)
この気持ちこそ、臆病の表れだろうが。
…過去に、色々あったとはいえ、雪虎は。
月杜家に滅んでほしいわけではない。死んでほしい、わけが。
(…待てよ)
雪虎は、秀の目を間近からじっと覗き込んだ。
見るのは、その外見ではなく。
―――――本質。そういう、眼差しで覗き込んだ。何かが見える、と期待したわけではない。けれど。
そうやって、―――――理解した。してしまった。
「…トラ?」
月杜秀は、確かに。
―――――人間ではない。
黒い茨に取り囲まれた、得体の知れない闇が彼の正体。即ち。
祟り、そのものだ。
祟りを消そうとすれば、秀自身が消える。
血の気が引いた。
瞬きすることで、視点を切り替える。意識を、元へ戻した。
…だが、こうも長く、祟りの発端となった一つの願いが…想いが、強く保たれるものだろうか。
保つための仕組みがあるのなら―――――それは。
あ、と雪虎は声を漏らす。
脳裏に響いた声は、恭也のもの。
―――――月杜の鬼は、祟り憑きを求める。望む。
鬼は待ち続ける。
その存在を願い続ける。
望むからこそ、生まれ。
だからこそ、年を経るごとに、力が強まっている、…とするならば。
何かが閃いて、雪虎はそれに飛びついた。
「会長」
雪虎は、つい、強く秀の肩を掴んだ。解決策が見つかった気がして。
「アンタは、月杜の状況をなんとかしたくないですか? 子々孫々、この状況が続くことを、望みますか?」
たった一つの存在にすべてを捧げ、この地に縛られる、不自由なこの状況を。
目を覗き込んで言えば、秀はわずかに目を瞠った。そこに映り込んだ雪虎は、必死な顔をしている。
秀が、そんなことを望むはずがない。
雪虎は確信して、秀の答えを待たず、言葉を続けた。
「望まないなら、あんたは今すぐ月杜から追い出すべきです。俺を」
そうだ、雪虎が月杜にいれば、さらに状態は悪化するだろう。
これまでのように、月杜の人間が、雪虎を、追い出すようにするのは、正解。
嫌悪して、正解だ。
雪虎が離れたなら、鬼が祟り憑きに重きを置かなくなるならば、月杜家が抱えたこの闇も薄れるのではないのか。
そう、いきなりすべてを根っこから消そうとするから、生きるの死ぬの、極端な話になるのだ。
時間をかけて、徐々に薄れさせていくならば、どうだろう。
力は薄れるだろう。
この地の豊かさは、薄れるだろう。
代わりに。
月杜は、解放される。
だったら、万事、受け容れるべきことではないだろうか。
「…何を、言っている?」
秀が眉を寄せた。
確かに、雪虎がここのところずっと気にしていた話とはいえ、秀には一言も話していないのだ。
彼にとっては、急な話だったに違いない。
だが、秀の顔にあったのは、驚きや戸惑いなどではなかった。
はっきりと、表情に現れていたのは。
不快だ。
雪虎は少し、面食らった。
秀の、そんな表情を見たのは、思えばこれがはじめてだったから。
過去を振り返れば、何につけても秀は、雪虎の言動を肯定してきた。ゆえに、秀のそんな反応は新鮮ですらあった。
秀の表情に見えた否定に、雪虎は首を傾げる。
「何をって…月杜の状況は不自然だろ? もういい加減、解放の道を考えるべきだ。一族の長なら、なおさら」
色々と知った目で見れば、聞いているほうが、見ているほうが辛い。
雪虎が眉をひそめた、刹那。
「―――――まさか」
ふ、と秀の表情から、温度が抜けた。
「最近の妙な行動の理由は、…それかね」
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