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日誌・193 何をしたっていい

妙な行動。 何かあっただろうか。 一瞬、雪虎は疑問に思った。直後、答えは出る。 いつもとは違うタイミングで、御子柴家へ泊りに行ったこと。 そして、仕事でもないのに、恭也と会って一泊旅行をした。 これらの行動は、確かに、いつもの雪虎とは違う。 とはいえ。 雪虎は胡乱な顔になる。 「…話しましたかね?」 覚えはないが、雪虎から話さない以上、秀が彼の行動を把握しているわけが、 「報告が入る」 …あるようだ。 報告。 いったい、どこの誰がどうやって。 当たり前のように、犯罪の香りがする。 いや、悪いこととは、秀は思っていないだろう。やりたいようにやっている、それだけだ。 正直に、雪虎は呆れた。 (俺の行動なんか知って何が楽しいって言うんだか…違うな、問題はそこじゃない) 「止してください。聞いたらいいでしょう、普通に、俺に」 昨日何してた、とか、留守だったがどこに行っていたんだ、とか。 日常会話と思うのだが。 少しは常識を持ってほしい、と訴えれば、返事は素知らぬ顔で返った。 「トラのことだ、聞いても話さない場合があるだろう」 当たり前だ。 幼子が母親にする報告でもあるまいし、何もかも話すわけがない。 なんにしたって、やりすぎだ。 他の人間が聞いたなら、「やり過ぎ」程度で終わらせる雪虎も雪虎なのだが。 ひとまず、雪虎が文句を言おうと口を開いたタイミングで。 「…ぁ?」 秀に抱きしめられた。 いつもの、胸の内へ包み込むような抱擁ではない。 秀の腕にこもった力に、雪虎は思わず呻いた。それは、雪虎を拘束するような、罰するような力だった。にもかかわらず。 「トラ」 耳に届いた秀の声は、平坦だ。だが、次の言葉を聞くなり、 「『私からトラを奪うな』」 パチッと静電気に似た何かが、雪虎と秀との身体の間に走った気がした。 気のせいだろうか。 そんな微かなものだったが、気になる。雪虎が、密着した身体に意識を向ければ、 (…待て待て) 秀の身体の熱さに、雪虎の内腿が微かにはねた。 足の間に感じる秀のイチモツが、先ほどよりもっと力を持って、雪虎のソレに押し付けられてくる。 「『…このままでいい』」 秀の声から、感情は感じ取れない。そのくせ、息遣いが、妙に切羽詰まっていた。 「『何も変わらなくていい。必要がない』」 その抱擁には。 雪虎を、秀の身体の中へ押し込むような。 雪虎の身体を微塵に砕いて動けなくするような。 ―――――何か、紙一重の力がこもっている。 ただし、雪虎には、…どこまでも自分勝手で危うい、それが。 心地よかった。 雪虎は、気に入った。 気遣いに溢れる触れ方もいいが、もどかしいのだ。 どこか感情的で、それでもきちんと気持ちを感じ取れるこういった触れられ方の方が、人間的で好ましい。 自然と、雪虎の唇が笑みを描く。どこか、楽し気に。 とはいえ。 やはり、静電気に似たものは気のせいではないようだ。 もう、無視し難いほどの強さで二人の間に走っては消える。 (…なんだ?) 気付いているだろうに、秀はそれに対しては何も言わず、 「もし状況が変わったら」 逃がさない、と言いたげに、雪虎の頭を自身の肩口に押し付け、秀は喘ぐような息を吐く。 「完全に、トラは私から興味を失う。意識にもとめなくなる。嫌ってさえくれない」 予想外の言葉だった。雪虎は面食らう。 秀は何を言っているのか。 違うだろう。 状況が変わって、―――――鬼だの祟り憑きだのが消え去れば、おそらく、雪虎の方が価値を失う。 秀の中から。 雪虎はきっと、秀を無視できないのに。 額を秀の肩口に押し付けた状態で、俯いた姿勢の雪虎は唇を噛んだ。 その間にも、秀の言葉は続く。 「それはだめだ。『それは、いけない』。それ、以外なら」 どこか不器用な語調で、秀は言葉を重ねた。 「何をしたっていいから」 自分から罠にはまりに来るような台詞を、雪虎相手に無防備に、よく言えるものだ。 とはいえ―――――何をしてもいいからと縋ることで、雪虎の関心を引こうとしているように見えて、そのくせ。 主導権は秀にあった。 掌の上で、踊らされているような心地にもなる。 同時に、雪虎は、納得もした。 こんなふうに思っているからだ。 昔、雪虎が秀にしたことを、彼が傷にしていないのは。 秀にとっては、あれでよかったのだ。 正しかったのだ。 かえって、雪虎にとっては傷になったが、…あるいはそれも、秀の思惑の内だったのかもしれない。 …なんにしろ。 ―――――静電気に似た痺れが走ったタイミングや、今まで聞いた話を振り返れば、自ずと答えが見えてくる。 つまり、秀は。 「今、俺に。…鬼の力を向けましたか?」 鬼は、言葉によって人の心を操ることができると聞いていた。 …今まで。 それを意識したことも、感じたことさえなかったが。 もしかすると、―――――今のが。 不思議なものだ。 離れで気持ちを伝えられた時は、何も感じなかったのに。 それとも。 (こもった感情の種類が問題、なのか?) 「操りたいと思ったわけではない、と言っても…信じないだろうね。だが」 秀の声は、どこか、達観している。 反省もしていなければ、隠す様子もない。 「トラには鬼の力が通らないのだから、…正直な気持ちを伝えるくらいはいいだろう?」 秀は淡々としている。開き直った、という態度でもなかった。あくまで、普通。 というのに、微妙に、雪虎の前でなら安心できる、と言われている、ような気もした。 その様子に、なんとはなしに察する。 おそらく、ただ素直な気持ちを伝える、そんな当たり前のことをするだけで、鬼の力は生じ、言葉は他者を操る道具となるのだ。 一方で、秀の、極端に感情を削ぎ落した態度を思い返せば。 ―――――つい、同情的になろうというものだ。 なにせそう考えれば、月杜家の主であるということは、想像以上に厳しい。 感情も言葉も、秀が素直に口にしなかったのは、単純に、『話してはいけなかった』わけだ。 ともするとそれが、意図せず他者を操るものになってしまうかもしれない以上、どうしても律する必要があった。 そんな秀が、正直に心の内を晒すと言う。 貴重な機会だし、拒絶する理由もない。 ここで跳ねのけ、二度と話す気にならなくなる方が問題だ。 雪虎側としても、いくらでも聞いてやろうと言う気にもなろうもの、だが。 ―――――際限なく受け入れることは、今はまだ、どちらにとっても早い気がした。 先日のことを思い出した雪虎は、内心青くなる。 地下牢で、身体が壊れるかと思った交わりの記憶はまだ生々しい。 秀はおそらく、加減ができない。 というか、加減の仕方を知らない。 ならばある程度は、雪虎側で律する必要があった。 それに、秀のことだ。 こういう場合に、雪虎がどう頑張っても相手への同情を避けられない性質を持っていることを知っていて、言葉を選んだ可能性もある。 …察しては、いるが。 「もちろん、いいですよ? …ただ、今は」 抱きしめてくる腕の力を背に感じながら、雪虎はにやり、笑う。 「…動きましたね?」 秀の望むままに、躍るのも、悪くはない。 秀との悪い遊びは、楽しいのだ。 「動いたらダメだって言ったのに」 叱るように冷ややかな声で、言えば。 背から、秀の腕がゆっくりと離れていく。 雪虎は秀の肩口から顔を離した。 秀の顔を覗き込む。 秀は、たいして動じていない。 どころか、ホッとしたように見えた。 雪虎が彼を突き放さなかった。離れなかった。 そうせず、嬲ろうとするかのような態度を取る。 そのほうがよほど、秀の望みに沿うのだろう。

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