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22(side翔瑚)

 ──仕事帰り。  緊張した面持ちで乗り込む電車が向かうのは、いつもの最寄り駅ではなく、ほんの二駅先。咲のマンションの最寄り駅だ。  うちに帰って車を取りに行く程の距離でもない。帰りにフラッと寄れる程度の距離。  こんなに長く感じるのは久しぶりだ。  頭がクラクラと揺れて死にそうになる。  大手企業との契約を取り付け重役たちの前でプレゼンした時よりもずっと動悸が駆け足で酷い。  ──今日の昼休憩、俺は意を決して未読だった咲のメッセージを開いた。  そして、きっとあれ以来届いていないのだろうと思ったのに、いくつも積み重なる呼びかけの声が目に入った。  なんで、この日に限って。  いつもはこうもたくさん送ってこないくせに、俺が無視したから、たくさん。  おそるおそる読み進めると、咲があの日、俺の行きたがっていた店の前で待っていたことを知った。  夕食の約束。  当日にならないとわからないと言っていた。当日になって、俺と行こうという結論が出たのだろう。  そして気まぐれなくせに一途な男だから──ずっと、俺の返事を待ち続けたのだとわかってしまった。  いつもならすぐに返事をする。  行けようが行けまいが返事をする。  返事をしなくとも、咲じゃなければ、思い当たる一番辛抱強い友人だって二時間を過ぎた頃には諦めていたはずだ。  俺じゃなくていいだろう?  咲は知り合いが多いのだから、他の人を誘えばよかったじゃないか。  閉店時間を過ぎていたのだから、諦めて他の店に行けばよかったじゃないか。  なぜ? どうして?  そして最後には家まで迎えに来た。  わからない。  そこまで頑なにルールを決めていたのに、梶の俺を守らんとした嘘を聞いた時には、あっさりと踵を返していったのだから。  わからない。  俺には咲が、わからない。  ただ──……あの日はとても、寒かった。  深夜に雪が降ったのか、朝は地面に薄い雪が積もっていたような真冬だった。  咲は何時間も、一人でずっと、あの寒空の下で返事のない俺を待ってくれていた。  それに気づいた時のヘドロのような罪悪感とそこから沸き上がる狂気じみた喜びに、いてもたってもいられなくなったのだ。  どうしても、逃げる前に話がしたい。  自分が惚れた人間がどういう人間か少しでも理解してから、この恋を忘れる努力をするかどうかを決めよう。  そう決めた俺は、胃を痛めつけながらもしばらくガタゴトと電車に揺られる。  駅に到着してから数分歩けば、咲の住むマンションが見えてきた。  築浅で駅近のタワーマンションの高層階なんて三千万はくだらない。  咲の家も咲自身も異常なくらいの金持ちだ。息吹の家はそういう家系らしい。あまり詳しくは触れないが、いちいち驚いていては身が持たないので慣れた。  このマンションは玄関ホールに部屋ごとのナンバーロックがかかっていて、コンシェルジュもいる。  だけど防犯意識ゼロの咲は引っ越してしばらくの頃にロックナンバーを教えてくれたし、咲の部屋の鍵は年中連休である。  コンシェルジュたちも、咲の部屋に通してほしいという人は誰でも通せと言われているそうだ。  馴染んだ手つきでロックを解除して、無駄に豪勢なエレベーターに乗り込む。  咲には一度電話をかけたが出なかった。  訪ねる旨を連絡したが、音沙汰なし。  これはいつものことだ。着信はたいてい取るのだがメッセージは気まぐれ。咲はムラがあるから、返事がすぐに来ない時はある。

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