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19(side今日助)

 知っているのか?  アイツがいなくなったこと。お前の、お前が、お前は、……俺は……。  俺が掴んだ手と逆の手がおもむろに伸びてきて、俺の項に触れた。  恋人につけられたまま消えない傷跡をなぞるように指先がすりすりと動く。  強張っていた身体から少し力が抜け、心地良さから無意識に目を細めた。  咲に〝日向ぼっこ中のトカゲ〟と言われる妙な癖だ。自覚はあまりない。 「俺、オマエのここ気に入ってんだよね。わかる? それをまぁ、趣味がわりーオトコ。足とか腕とかならよかったのに、ここはダメ。だって痕になってるじゃねーの」 「あはは……」 「ぷっ。まぁ、なで心地は悪いけど……キレーなまんまだね、キョースケは」  ──なんで泣いてんの?  いつもと変わらない笑みを浮かべて尋ねられても、いく筋もの雫を零しながら笑う俺には、なにも答えられなかった。  項に痕があったから。  そんなものが気に食わなかったからって、人間一人蟻地獄から救い出すやつがいるか。バカ、バカ、バカ。バカ咲。  息吹 咲野のバカ野郎。 「咲……本当にお前はひどいやつだな……いつだって酷いバカだ……ひどい、ひどいよ……」  もし、俺が惨めにも地獄を作るアイツを消えてもなお愛していたならどうする?  もし、俺が歪んで可哀想な自分に酔い、わざと甘んじていたならどうする?  もし、もし。  俺がこの状況を是としていたら。  俺がそういう依存的な関係で愛だの恋だのを盲信するロマンチストなら、なにも聞かずになにも言わずにアイツを遠くへ追いやった咲は、身勝手なただのサブキャラに成り下がる。  だって、俺は助けてくれだなんて、ただの一度も言っていないんだ。  痛い、苦しい、辛い、わけがわからない。泥沼から抜け出せない。俺一人ではどうしていいのかわからない。助けて、助けて、誰か助けて。助けて、誰か。  俺がぺしゃんこに潰れて消えてしまう前に──……助けて。  そんな悲鳴、上げなかっただろ?  なのに気ままで傲慢で自由なこの男はいとも簡単に。  ただ気に入っていたペットの気に入っていた部位に傷をつけられたから。  そんな理由で。  なんてこった。  俺は、もう知らない男に身体を売ることはないのか。  もう友人に頭を下げてお下がりの教材を譲ってもらうことはないのか。  もうアパートの更新料を待ってほしいと恥を忍んで縋ることはないのか。  そうか。  どうせ払いは自分だろうと、豪勢な夕食をとる恋人の前で水を飲むことはないのだ。  付き合いで行った食堂で一番安い素うどんばかり頼み、笑われることもないのだ。  こっそり貯めたへそくりは自分のために使える。  恋人のビール代を優先したおかげで風邪薬を買うことを惜しむ苦悩もない。  資格試験のために自転車で県境を超えなくてもいい。  俺の金は俺のために使える。  この身体に新しい傷はつけられない。  苛立った相手の顔色をうかがうことも、征服と性処理の為だけの快感や納得のない罰ゲームじみたセックスをすることも、ない。  そんな当たり前の日々が、帰ってくる。  情けない自分が迂闊と愚かを抱えて飛び込んだ泥沼へ、気まぐれなお釈迦様から、蜘蛛の糸が垂らされた。

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