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12(side蛇月)
──むかしむかしのお話だ。
音楽好きの父親の影響で幼い頃から楽器や歌に触れていた、音待蛇月という男の話。
俺の親父は大の楽器好きだった。
趣味が高じて、子どもや学生に楽器の基礎を教える教室を開いたくらいだ。
母親は楽器を弾けなかったがなかなか有名な歌手だったので、あまり家にいない代わりに、俺にはいつも歌を教えてくれた。
親父はいつも俺を教室へ連れて行ったから、俺の遊び場は教室のすみっこ。
父親が弾き手で母親が歌い手。
となれば、その遺伝子を惜しげもなく継いだ上に音楽に囲まれて過ごした俺が、のめり込むのは必然だったのだろう。
耳が良かったのでどの音も聞き分けられたし、どの音階も違わず歌えた。
好奇心も旺盛で、どんな楽器も奏者のやり方を見て学び親父に教わっては夢中で奏でると、それは全て立派な遊び道具になった。
話す数より歌う数が多かった。
落書き帳より五線譜を欲しがった。
戦隊モノやブロック、鬼ごっこやゲームより、ギターとマイクに興味を示した。
なにより歌が好きだった。
部屋にこもって創作ソングを作って歌って、俺は一番、歌うことが好きだった。
けれどなにもかもをそっちのけで閉じこもり音楽にのめり込む日々は、俺からそれ以外の能力を奪っていたらしい。
中学校に上がった時。
俺は初めて、自分は勉強、運動、対人関係、とにかく音楽以外のものが平均以下へ落ちこぼれている、と気づいたのだ。
別にそれを悲観してはいない。
もともとの性格が楽観的である。
ただ、音楽を愛するために、それらも必要な物事であったというだけ。
そうなると途端に辛くなった。
落ちこぼれの烙印は、明確な弊害となって大人と子どもの境界線に押し寄せる。
夢を叶えることすら難しくなる。
〝いつか自分が歌うバンドを作りたい〟
幼少の頃から寄り添っていた音楽の影響は、俺に夢を生み出した。
俺がヴォーカルで叫ぶんだぜ。
腕のいい、いや腕も大事だけど伝えたいものがあるっていうか、大切なものを俺と同じ温度でいてくれるメンバーを揃えて、表現の限界まで人の心を揺さぶるんだ。
そんな夢を見たものの、当然ヴォーカルだけでバンドは成り立たない。
なのに俺はなにもかも劣っている。
他のメンバーに声をかける脳も語彙もハウツーもコミュ力もなく、募集方法もハテナで、そもそもどうすれば自分の夢が叶うのか明確なビジョンはまるでない。
更にその頃の俺は特に酷かった。
どの楽器も扱えるせいで、教室の生徒の空役を埋める助っ人でしかなかったのだ。
グループを転々とするから馴染めず特定の親しい人間もいない。
容姿に無頓着で黒く重たい髪を放置しファッションはおろか最低限の身だしなみすら雑だったため、陰気なやつだと倦厭される。
別に、人見知りとかしねんだぜ。
ビビりでもねぇし。
けれどなにがいけないのか察する能力も人に聞く能力も解決する能力もまるでないもので、自分だけじゃ手も足も出ない。
俺は頭が悪かったのだ。
そして圧倒的な経験不足から咄嗟の対応が苦手で体が強ばり、すぐに閉口する。
歌が好きだ。歌を歌いたい。
そんな簡単なことを言えずに、ただ黙して便利な役柄を演じるだけの日々だった。
この日も俺は、誰も知らないだろう鍵の壊れた屋上に足音を忍ばせてやってきた。
影が薄いので気づかれることもない。
探しにくる友人もいない。一人のほうが気が楽だ。
発見を気にすることなく、ドアの隣に壁を背にして座り込む。
手に持った紙の束。
これは俺がフルパートの作曲をしたバンドスコアである。
だけど演奏したことは一度もなかった。
この時代インターネットソフトを使って音楽を作ることはできたが、勉強そっちのけで音楽にかまけていた俺にそれを使う能力はなく、教わることもしなかった。
使えても、使わなかったと思う。
生演奏に慣れている俺は、あくまでもメンバーを揃えて曲を作りたかったのだ。
生の音は深く届く。
聞いた人の心を奪いたい。
歌えないなら、奏でられないなら使っていいと思うけれど、俺は歌えて弾ける。だから同じように生々しい人間が必要だ。
ただ……その方法がわからない。
揺るぎない夢があるのにうまくいかずどうしていいかもわからずマヌケにくすぶる俺は、この時、すっかり腐っていた。
「……ん、ん」
トン、トン、トン。
膝を叩いてテンポを取る。
今日の歌詞はどうしようかな。なんとなくの光景、言葉、並べて歌ってみようかな。
「〝おはよう、こんにちはこんばんは。ボクがあいさつ決定権を持ったなら、まずはキミが好きを仲間入り〟」
できあがった曲に歌詞をつけていく。
歌詞はいつも適当だ。
伝えたいことがある時もあるし、ない時は思いついた言葉を並べて繋げて、ストーリー調になる時もあれば誰かを歌うこともあり、結局は曲が勝手になにかしらテーマを持って独り立ちすることがほとんどである。
誰もいない屋上。
青空だけの贅沢な観客なら、喉のつかえが取れて比較的俺らしく歌える。
「〝おはよう、こんにちはこんばんはキミが好き。おやすみキミが好きいただきまスキ。スキスキスキ〟」
膝を叩く手が両手になり、上履きの先でコンクリートをなぞった。
まろやかに。弾むように。
ロマンチストっぽく、そう、調子に乗って休日の朝みたいに歌うのが正解。
「〝あぁ、そんなふうに言えたらいいな。いいな。ボクが鳥なら鳴き声はキミが好きで、ボクが空なら雲の形はキミが好き。
あぁ、そんなふうに言えたらいいな。いいな。ボクはキミの斜め右後ろさん〟」
あはっ、よしよしいいぜ、あはは。
他力本願夢見るロマンチスト少年の青い片想い。素材は俺の願望だ。
あぁ、うちの教室のあの腕のいいドラマーが、伸び代のありそうなベースが、ハモリ向きの声をしたギターが、指の綺麗なキーボードが、俺のメンバーになればいいのに。
トントン、コツコツ、ジャリ。
パシッパシッ。
トントン、ツッタカカッ、カッ。
「〝キミが大好きな斜め右後ろさん。
ほんの一目振り向いてくれたらなって、無音のあいさつ鳴き声テレパス。
そんな意気地なし斜め右後ろさん〟」
うん、じゃあいいぜ。わかった。
お前のタイトルは斜め右後ろさんだ。
小さな声で歌った。
昼休みは、こうするのがマイブーム。
いつもあまり大きな声で歌わないから学校じゃ練習にならない。
うちでも一人じゃないと歌わないから、歌うことが好きなだけで、抜きん出て上手いわけじゃないと思う。
それでもこれだけが唯一の存在証明だ。
俺はアーティスト。
誰かに届けたい。
聞こえるかい、って。
俺はここで歌ってるんだ、って。
だから。
「──下手くそな歌だなぁ」
「っぇ……」
自分が背にしている出入口の屋根の上から、第三者の声が聞こえるとは、思わなかった。
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