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13(side蛇月)
慌てて立ち上がり振り返る。
サァ、と吹き寄せる風で髪が舞い視界が明るくなると──青空をバックに屋根に座ってニンマリと笑う、雲のような男がいた。
俺と同じ制服。だけどネクタイの色は二年生だ。一つ年上。
逆光に目が慣れて、白に近い金髪やバランスのいい体が像を結ぶ。
人じゃないみたいに……きれいな、人。
その人は幼い美少年というよりは紛うことなく男へと成長していくと確信するような、美しい少年だった。
派手な容姿と軽率な声かけ。
そういうタイプの人間?
言葉もなく目を見開くだけだった俺が無意識に警戒しても、彼は気にもとめず、真っ直ぐに手を差し出す。
「なぁ、一緒に寝よう?」
「は……ね、る……?」
うん、と薄い笑みを浮かべて頷いた。
差し出された手に恐る恐る近づくと、ドアノブに足をかけて跳べと簡単に命じる。
俺を選んで誘われたのは、はじめて。
だからこれはただのはじめて由来の高揚で、ノウタリンらしい刷り込みと無責任な期待、好奇心だろう。
けれど確かに、俺はその手を取りたいと思った。
思ったから、手を伸ばした。
しかし伸ばしてから気がついて、ハンパにあげた手をピタリと止める。
「お……俺、運動、苦手。跳べない……」
歌の練習で体力はあったけれど外側の筋肉は平均以下だ。もし誘いにのって上がろうとして、うまくできなければ落ちこぼれだとバレてしまう。
こんなきれいな人に落胆されると、俺、きっとすげえ、悲しいんだ。
そう思って浮かせたままだった手を引っ込めようとする俺に、彼は表情を変えることなくコテンと首を傾げた。
「は? なに言ってんの? 跳べるよ」
「っ? と、べない」
「跳べる。てか運動とかなんとか関係ねぇし、おまえ足あるじゃん。手ぇ握るから足出して蹴れよ」
「でも、とべない、かも」
「おいで、早く」
どうしてそやって、言い切れるの?
本人より断言する他人に狼狽えて完全に引っ込める前に、彼は上げっぱなしの俺の手をぎゅっと掴んで、思い切り引き上げた。
「う、わ」
トン、とコンクリートを蹴る。
華奢に見えて力強い腕に引かれた俺は、驚く間もなく気がつけばドアノブ、壁を蹴って踏み上がっていた。
数歩タンタンと足がもつれながら、上履きの裏をしっかり踏みしめてたどり着く。
勢いを殺せずフラついたおかげで手の持ち主に突っ込んでしまい、慌てて顔を上げると至近距離に作り物じみた笑みを見つけて、ジワリと頬が熱くなる。
「あ、俺……」
「絶対跳べるのに、やらずに想像して無駄に悩む時間なんか世紀の損失だろ? やれるかやれないかはやってから知ればいんだから」
「……うん」
腕の中で、俺はもう彼の言葉を否定せず、ただ頷くにとどめた。
なぜそんなこと断言できるのか。
赤の他人で初対面。とんでもない自信家なのか驚異の愚か者なのかと、疑ってかかるのが普通だろう。
でも俺はそう思わなかった。
だって理由はともあれ俺は実際にここに跳べたんだ。なら彼の言うことは正しかったという事実、実績がある。その通りと思う。
キラキラして、凄い人。
もしかして──カミサマ?
トクン、トクン、と速まる心臓の鼓動。
俺は年齢より精神が幼い質だったのもあって安直な結論に本気で至り、中学生らしい妄想も込みでドキドキと胸を躍らせる。
「カミサマ……俺、音待蛇月っていう」
「カミサマ? はは。この世で一番知らん顔がうまい人じゃん」
「そう……? この世でいちばん、人から遠い人」
「くく、タツキ。なんかお前おもしろいね。愉快なことはいいことよ」
「お、っ?」
話ざま、無軌道に片手首を取られた。
俺を貯水タンクの影に引っ張りこんだカミサマが、柔らかく薄い灰の目を細める。
「俺は息吹咲野。好きに呼んでいい。たいていはサキって呼ばれっけど」
「咲……」
「そう。タツキ」
甘い声に耳朶を漬けられながらタンクを背に座らせられると、カミサマ──咲は、俺の膝に頭を置いてゴロンと横になった。
ドキ、と体がこわばる。
だけど動けない。
咲が俺の手を握ったままで、その咲が俺を見上げて、握った手の甲に指を絡めながらゆるゆると色気のある笑い方をしたから。
「なぁ、なんでもいいから子守唄、歌って? さっきまで、夢も見ねぇで眠ってたんだ」
「でもおれ、へ、下手だ」
「あは、なんで? いーよ」
「へたっぴな歌でも、俺は好き」
──そうしてこの日の俺は、日が暮れるまで咲のためにか弱い声で歌を歌った。
午後の授業が終わって放課後になっても咲が瞼を開かないから、いつの間にか咲に身を寄せて俺も一緒に眠っていた。
今思うと、おかしな話なんだろう。
咲とはたまたま出会っただけの偶然で、惹かれるに値するほどなにも特別なことをされたわけじゃない。
俺は夢のための仲間が欲しかったけれど友達が欲しいわけじゃなかったし、誰かに見つけてほしかったわけでもない。
だけど、そうだなぁ。
他に目もくれず自作の曲を一人コソコソと歌うような奇妙な客人でも声をかけて、ごく自然体で自分の側へと引き上げるくらいに。
咲はきっと……人間の内側を見透かすことが、誰よりうまい人だった。
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