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15(side蛇月)
ドクン、と心臓が驚く。
鼻先が触れ合う距離ではまばたきすらはばかられるほど緊張して、意識が全て咲に持っていかれてしまう。
至近距離で見てもどこもかしこも綺麗な咲は、目を細めてじっと俺を見つめた。
自分から提案したのにやりたくないならやらなきゃいいって、なんで?
もしかして俺が嫌がるから機嫌を損ねたのかと血の気が引き、青くなる。
「なっ、なんでっ?」
「なんでもくそも嫌ならやんなきゃいいっしょ。アニメじゃあるまいし、本気じゃないバカが即いい点とれねって」
「本気じゃない、て、俺」
「や、歌ってお前の好きなことなんだろ? んでテストの点は夢に必要。好きなもののために嫌々頑張るって、なんか違う気がすんのよね」
「んひっ」
首が痛いほど引き寄せられて首の骨がミシ、と軋んだ。
触れ合った鼻先がこすれて引いた血の気が沸騰する。居心地が悪い。なんでそんなことを言われるのかわからない。
「が、頑張るって俺言った、よ。夢とテストは、違う。そんな言い方、咲」
「ん? 同じじゃん。お前が言ったのは頑張るじゃなくて思ってもないこと」
「でも、でも俺、咲のリクエスト、叶えてみようと思ったんだ、ぜ? 咲のために、咲が言うから、頑張ろうとした……のに」
「アハッ! 俺を理由にすんなって。責任って背に乗っけるとわりかし重てーから」
「むつ、むつかしいこと、言わないで」
「これ以上わかりやすく言ってって? むつかしいこと言うなぁ。タツキ、ワガママ」
「っ……!」
ビクッ、と全身が硬くなった。
呼吸ごと黙り込んでも手遅れだ。
咲にワガママと言われた。寝付きの悪い咲はめんどうもうるさいもつまらないも昼寝の邪魔で、邪魔なものは要らないもの。
納得いかなくてでもだってと文句を言い続けていた俺は間違いなく邪魔だ。
もしかして嫌われたかも、と思い、冷や汗と震えが止まらなくなる。
咲には嫌われたくない。──丸ごとの俺を、好きになってほしいから。
「いーよ。タツキの声聞いてると寝れそうだし、お話しましょ」
怯える俺を気にもとめず、咲は平然と笑った。笑って俺を惑わせるのだ。
距離が縮まる。視線が絡み合い、吐息が触れ合う至近距離。
「わかりやすくって、なにを?」
「せき、責任って、俺、そんなことしてねぇよ」
「俺に言われたから嫌々頑張る。これ、選択したのはお前なのに俺のせいになんだよ。そういう世界だから。迷惑」
「っ……あえ、う、じゃあ、好きは、がんばってやら、ない、の?」
「さぁ? 知らねーし」
「え……」
「でも好きなもんが頭に残んないなら、お前の頭には他のなんでも残んないね」
「っ」
「なんも残んねーならやるだけムダ。だから、嫌々頑張らなきゃならやめちゃいな? 自分が必要としてるからやるんだって納得できないでやったら、この先ずうっと誰かのせいにする転嫁者になっちゃうぜ」
「ふ、っ……」
幼い中学生の心を粉々に砕いてもおかしくないほど、残酷な刃だった。
その刃を容赦なく突き刺した咲が、そうとは思えない甘い手つきと声色で俺をなでるものだから、ビク、と肌が戦慄いた。
咲は怒っていないと言ったけれど、痛いところを抉られた俺は勝手に叱られているような気分になり、頭を押さえられたまま視線だけを逃がす。
そんな俺の逃亡なんて気にせずに喉を鳴らして笑う咲が、眠たげな声でコロコロとトドメを囁く。
「タツキは音楽が好きなんじゃなくて……できないオベンキョウやオハナシより、できる音楽のほうがラクだから、歌ってんだ」
「──……!」
〝好きなことだけしたい。結構。
ただその好きなことのために努力できないなら、お前が好きなのはぬるま湯だ。〟
その言葉は、自分の目的のために必要なことでもできないことはしたくないと逃げたがって世間やそれを強いる咲に責任転嫁しようとする俺の無意識の弱い部分に、深々と突き刺さった。
優しさとかけ離れたこの神様は、ともすれば、人の心を再起不能に潰すのだ。
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