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 ◇ 「ふぅ……」  仕事終わりの木曜日の男──初瀬翔瑚は、トボトボと駅前のレンガ道を歩きながらため息を吐く。  それは、昨日のことである。一晩が明けても元気ハツラツとはいかないほど、ちょっと、いやかなり落胆する出来事があったのだ。  昨日、木曜日は、恋人である咲野を独占できる。  翔瑚にとって、一週間で最も素晴らしい日だった。  しかしそれは、入社して三か月となり気が抜けつつあった新入社員が、うっかり大きなミスをするまでの話だ。  朝から課の女性社員が頬を染めるような爽やかな笑顔を振りまいて出勤した翔瑚のハッピーデイは、一瞬でバッドデイへと変貌した。  クライアントへ勝手な口頭での約束をした上に、それを直属の先輩である梶にも、チームのリーダーである翔瑚にも伝えず、今の今まで忘れていた、と。  翔瑚のチームでは常日頃、〝本社への確認、判断を仰ぐことでタイムロスをするならば、その場で自分の判断、裁量を奮い、ベストだと思った提案をしていけ〟と教えている。  ただ、それと同時に〝その判断を下した理由、状況、根拠を言語化し、必ず報告をしろ〟とも教えている。二つはセットなのだ。  けれどその社員がそれを怠ったために、何度も取引きをしているクライアントは社員の言葉を信じ、契約書が送られてきてしまった。  現場はてんやわんやだ。  同時に委託される案件を誰も知らなかったのだから、当然である。  手が離せないチームメンバーを除いて、営業部内で対応できる人員を急いで確保し、企画部に頭を下げて急遽担当者を決定。  発注書を持っていくと製造部とエンジニアの責任者たちは無言で壁を殴ったが、普段あちこちの頼みを笑顔で受け入れている翔瑚の頼みということで、受け入れてもらえた。  奔走している間、クライアントへの連絡は梶に任せる。  梶はそういった人間関係を保つことが飛びぬけて得意だ。咲野とだって気兼ねなく対応できる猛者である。機嫌を損ねることなく、事情を説明してくれた。  翔瑚は、青ざめる新人を慰めることはしない。  ただ〝どうしてこうなったか〟〝どうすればよかったか〟〝次はどうするか〟を考えさせた。  彼が自己嫌悪で埋もれることなく、今回の件を受け止めて猛省し、思考することで停止しないよう、脳を働かせさせるためだ。  仕事が終わった夜、温かい飲み物一杯分だけ、二人きりで話をした。  アフターフォローは、リーダーの仕事だ。  考えすぎて沈む性格かどうかはまだ把握できていなかったので、様子を見ながら、最後にはお互い笑ってまた明日と手を振った。  自販機の前で腕時計を見た時、案の定日付が変わっていて、昼間のうちに咲野にキャンセルの連絡をしていてよかったと思う。  だが、話をしながら、翔瑚は何度も咲野のことを思い出したのだ。  もっと昔。今よりずっとミスの多い翔瑚だった頃。  いちいち落ち込んではせっかく隣にいる咲野に集中できず、曖昧にごまかしてばかりだった翔瑚を、咲野はいつも翔瑚の代わりに笑い飛ばしてくれたことだ。 『あはっ。なんで、自分からもっと複雑にしてんの? 口で言うほど、人間の中身は単純にできてねーのに』 『えっ……?』 『よかったね。失敗して』 『っ』 『失敗して血の気が引く感覚。知らない成功者より、臆病になれるじゃん』  失敗して、よかったねと言われるとは、思わなかった。そしてそう言ってくれた人も、後にも先にも咲野だけだ。 『オマエは泣きながらでも、進むでしょ?』  取り方によっては、馬鹿にしているようにも取れるセリフ。  だが見方を変えれば、失敗に怯えながらも進むことをやめないだろう? という信頼だった。  この日ミスをした新人に言った言葉の半分は、そういう咲野の言葉だったりする。翔瑚は咲野でできている。  ──できているのに、会えるはずの木曜日に、咲野と会えなかったという事実。  長くなったがそういうわけで、翔瑚は残業なく帰ることができた金曜日の夕暮れだというのに、肩を丸めて歩いているのだった。

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