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真人②
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この歳にもなって、両親の結婚記念日を兄弟二人で祝う羽目になるとは、藤峰真人 も思っていなかった。毎年、兄夫婦が両親に老舗のすき焼きをご馳走していたことは知っていたが、真人が参加するのは今回が初めてである。
真人が到着したのは、午後七時半過ぎだった。さすが老舗だけあって、日本家屋の外観は佇まいに威厳と風格が漂っていた。外門から石畳を歩き、暖簾をくぐって中へと入る。
靴を脱ぎ、女将に案内してもらった個室に入ると、先に来ていた父と母、そして亮治がすでに瓶ビールを飲んでいた。いつもは座敷だそうだが、今年は母が腰を悪くしたためテーブル席にしたらしい。
「ごめん、遅くなった」
真人がジャケットを脱いで、いそいそと亮治の隣に座ると、グラスを持てと言わんばかりに、亮治が瓶の口を真人に向けてくる。
「あ、ちょっとでいい」
「なに、兄貴の酒が飲めねえのかあ?」
「残業続きであんまり飲みたい気分じゃないんだよ」
亮治は瓶ビールをちょっと引っ込めて「ああ、もうそんな時期か」と顔を上げた。
「そういえばさ、今年も牧野先生のところに処方箋をもらいに行きたいんだけど、病院変わってたりするのかな」
「あー胃薬だっけか?」
「そう。去年までの病院は、非常勤だって言ってたから。今はどうなのかなと思って」
「えーと、あいつ今どこの病院にいるんだっけな……まあ来週牧野と飲むから、その時訊いとくよ」
真人は小さく頭を下げた。「頼みます」
「でもさ、あんまり薬に頼るのもよくないと思うけどなあ、俺は」
「……僕だって、頼らなくていいなら頼りたくないよ」
真人は地元の市役所で働いている。公務員というと、ゆとりのある勤務形態だと思われがちだが、真人の所属している税務課は違う。年明けから六月にかけて、住民税の計算や住民らへの申告書の発送で、とにかく忙しいのだ。
両親の結婚記念日は六月の初旬。納税通知書の発送時期とかぶっているので、毎年仕事を理由に、兄からの「すき焼き食わせてやるぞ」という誘い文句を断っていた。
真人は自然と寄ってしまう眉間の皺を伸ばすように、指で揉んだ。とりあえず納税通知書を住民らに発送したのが今日。明日明後日からが、真人にとっての本当の地獄が始まる。
通知書が届いた住民達からの、苦情の電話対応だ。「税金がこんなに高いなんておかしい、計算ミスじゃないのか」とか、「どういう計算で税金の額を算出しているのかきっちり説明しろ」だとかである。
だが、それらの苦情を抱きたくなる気持ちも、理解できないこともないので「しょうがない」と割り切っている。
最悪なのは税金に対する苦情ではなく、自分達職員への関係のない罵詈雑言の類を浴びせられることだ。死ね、クズ、ゴミという言葉は何度言われても胃に穴があきそうになる。
典型的な罵倒よりショックだったのは、「住民から奪った税金がおまえらの給料になってるんだろ?」と電話口でバカにするような口調で言われた時だ。あながち間違いではないだけに、傷つくというよりもやるせなかった。
「ま、とりあえず飲め」
兄の亮治は気にせず、グラスにビールを注ごうとしてくる。
「……僕の話聞いてた?」
「バカ、そういう時だからこそ飲むんだよ、酒ってもんは」
「兄さんの肝臓と一緒にしないでもらえるかな」
亮治の手から瓶を抜き取り、自分のグラスに注ぐ。「おまえって、ほんと可愛くねーのな」と言われたが、三十二歳の兄から可愛いと言われたところで心臓は一ミリも動かない。
「まあまあ亮治、私らとは違って、真人とお母さんはお酒には強くないんだ。無理強いはよくないぞ」
兄弟のやりとりを見ていた父の武史 が、豪快に笑った。加齢に伴い、いくらか肉がついたが、笑う時に目を押し上げる頬は、今でも亮治にそっくりだ。
海の近くで育った父とは違い、都会育ちの母・麻子 も、父につられていつもより口を開けて笑った。笑うときゅっと細くなる顎を見る度、真人はつくづく自分はこの人に似ているなと感じる。
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