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真人③
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あまりのストレスに晒されていると、人は感覚が麻痺する。そのことに気づいたのは、社会人三年目の二十五歳の時だった。現在、真人は三十歳である。
毎年この時期になると、真人の感覚は鈍くなる。もともと特別繊細というわけでもないし、人より目の前で起こったことに対して割り切るのは得意だと思っている。そんな真人でさえ、この時期は神経を鈍化させないとやってられないのだ。
『おたくのね、その態度っていうかスタンスが気に入らないって言ってんの。こっちは汗水垂らして稼いだ金を払わなきゃなんねーんだぜ。その態度はねえんじゃねえの? ァアン?』
電話越しに、四、五十代くらいの男の声が、真人の鼓膜を震わせる。ァアン? のところで急に声が大きくなったので、真人は冷静に耳から受話器を離した。再び耳に近づける。
「はい。申し訳ございません。ですが住民税の支払いは義務になります。義務を放棄するということは、こちらとしてもしかるべき対処を――」
『あァアッ? てめえ、俺とやり合おうっていうのかァッ?』
「そういうわけではございません。できるなら、住民の方々に対してそういった対処をするのは、避けたいと考えております」
『やんのかゴルァア!』
本日一番の音量の怒声が飛び出てきて、真人はさっきよりも受話器を遠くに離した。一時間にわたるクレーム対応からちょうど解放された隣のデスクの綿貫英里菜 が、ビクッとこちらを見る。
「申し訳ございませんが、落ち着いてから今一度ご連絡ください。それでは、このまま切らせていただきます」
まだギャアギャアと怒号を浴びせてくる相手の電話を、真人は受話器を置いて強制的に終了させる。
ふと見ると、税務課に配属されてまだ一年も経っていない綿貫が、こちらに尊敬の眼差しを送っていた。
「……なに?」
「藤峰さんすごーい……。よく切れますねえ。あんな脅しのような電話」
綿貫はキラキラした目で、体まで真人に向けている。真人より三歳下の、清楚で愛嬌のある女性だ。本日は白のシャツに淡い黄色のセーターを肩にかけ、膝丈まであるグレーのタイトスカートを履いている。常に控えめな色のオフィスカジュアルに身を包み、年長の女性陣から目をつけられてやりづらくなることを避けているらしい。
だが、後ろにまとめたストレートの黒髪を留めるバレッタを日によって変えているあたりが、策士である。収入と安定を維持しつつ、市役所で未来の結婚相手を探しているという。
ちなみにそういった魂胆を平気で話されてしまったということは、真人は眼中に入っていないということなのだろう。真人としても職場恋愛は面倒なので、綿貫の態度は後輩としては目に余るが、女性としてはラクだと感じている。
「理不尽だから切れるんだよ。この人は毎年こうだから」
「え、毎年ですかっ?」
「そう、特にここ三年はね」
真人はパソコンで今まで自分にクレームを浴びせてきていた男の所得金額が書かれたデータを、マウスでスクロールして流し見る。
「自分の店があまりうまくいってないんだと思う。売上がいい年は、クレームの電話なんてかけてこないから」
「えぇ、それってひどくないですか? 私達がストレスの捌 け口にされてるってことですよねっ?」
「ま、そういうことだね。綿貫さんも気をつけた方がいいよ。いちいち真面目に取り合ったところで、こっちの神経がすり減るだけだから」
「取り合わなくていいなら、もう取り合ってませんって。ていうか、こういう電話をかけてくる人って、私達が傷つかないとでも思ってるんですか?」
「案外、わざと傷つけてこようとしてるのかもよ」
「うわ~。もしそうだったら最低ですね。ストレスでお肌がボロボロになっちゃう……」
ブツブツと文句を言っているうちに、再び綿貫のデスク上の電話機が鳴る。綿貫は「行ってきます」と言いながらビシッと真人に敬礼をして、受話器を取った。
ひと段落し、真人は給湯室に向かった。先日、兄・亮治の親友で医師をしている牧野から処方してもらった胃薬を飲むためである。
頭では住民からのクレームをやり過ごす術を身につけたつもりでも、体はそうもいかなかった。いくら心を閉ざすことはできても、体は閉ざすことができないのだ。
この時期の真人は、度重なるクレーム処理に追われ、胃がキリキリと痛みだす。
一昨年なんて一種類の薬だけでは効かず、渋る牧野に途中からもう一種類の薬を処方してもらった。
よく効くわりに、聞いたことのない薬だったので気になった。そこで後からネットでちゃんと調べてみると、軽めの精神安定剤であることが判明したのだ。あの時は苦笑いしたものである。
無意識にため息をつきながら、氷の入っていない水で薬を飲んだ。
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