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真人③
給湯室から出ようとした時、今度は真人のスマホが鳴った。今はプライベートの着信音でさえ億劫になる。真人は給湯室の隅で口元を覆いながら、母・麻子からの電話に出た。
『真人、今大丈夫かしら?』
「あんまり時間ないけど……なに、どうかした?」
『お兄ちゃんと、最近連絡とってない?』
「兄さん? すき焼きの後に、牧野先生の病院を教えてもらったのが最後だけど」
亮治は離婚後、新宿のマンションから京王線沿いのアパートに越し、そこに一人で住んでいる。心配性の母を安心させるためなのか、近ごろの亮治は、日曜日の夕方になると必ず実家へ電話を入れているそうだ。
だが、先週の日曜日のこと。いつもかかってくる時間帯にかかってこなかったので、心配した母から何度か電話をかけてみたのだという。
母いわく、どうやらその時にひと悶着あったそうなのだ。
「……機嫌が悪かったぁ?」
『ほら、お兄ちゃんっていつも人当たりがいいじゃない。私、驚いちゃって』
電話口に出た亮治は、母が聞いたこともないような、ひどく疲れた声をしていたらしい。しかも、電話の向こうでは亮治の声以外にも、怒っている男の声が響いていたという。
心配になって母が「なにかあったの?」と訊くと、亮治はイライラした様子で「俺にかまうな!」と乱暴に吐き捨てたそうだ。
話を聞いたところで、真人にとっては驚きも何もなかった。感情の起伏が激しくない自分にだって、眠気や疲労のせいで機嫌が悪くなってしまう日があるのだ。亮治だって例外ではないだろう。
男の怒っている声だって、テレビでもつけていたのではないだろうか。
大したことじゃないと判断し、真人は適当に「あとで僕からも連絡しておくよ」と通話を終わらせる方向にもっていこうとする。
だが母は、そんな真人の思惑を無視して、おそらくこっちが本題というように話し続けた。
『ねえ真人、お兄ちゃんの様子を見てきてもらえないかしら』
手で口を覆うのも忘れ、真人は「はぁ?」と言った。素っ頓狂な声が、給湯室の狭い空間に響く。意外と響いてしまい、真人は慌てて再び口元を手で覆った。
「ちょっと待って。どうして僕が?」
『本当は私も行きたいんだけど……腰がまだね。電車に長時間乗るのは、まだちょっときついのよ』
正直――いや、かなり面倒だった。いくら今までとは違う行動と態度をとったからといって、亮治も大人なのだ。母親や弟が心配してアパートまで様子を見に行くほどのことではないと思った。
真人はスマホを持ち直し、やや低い声で「本人が『かまうな』って言ってきたんじゃないの?」とやる気のない声を漏らした。だが母は『でもあの子、その……ね? いろいろあったじゃない』と、真人の話なんて聞こえていない様子だ。
面倒くさいと思いつつ、まあそうだよな、と真人も納得する。亮治は半年前に離婚し、先日もロクなものを食べていないことが判明したのだ。心身ともに弱っているのだとしたら……と心配する母の気持ちも、少し理解できた。
「わかった。明日休みだし、もし今日早めに仕事が終わったら、行ってみるよ」
とりあえず約束し、真人は母との電話を終えた。
自分のデスクへ戻る前、真人は久しぶりにメッセージアプリから亮治に『生きてる?』とメッセージを送ってみた。あまり心配していないが、それは生きていると確信しているからかもしれない。
亮治はマメな男だ。どんなに体調が悪くても、メールやメッセージアプリでの連絡ぐらい、すぐに返ってくると思った。
だが、いくら待っても亮治から『生きてる』とも『死んでる』とも、返ってはこなかった。
さすがにちょっと心配になり、真人はいつもより早く市役所を出た。電車に揺られながら何度もスマートフォンを確認したけれど、真人の送ったメッセージは放置されたままだった。
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