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真人④
***
母から教えてもらった住所を頼りに、真人が亮治のアパートに着いたのは、午後八時を迎える頃だった。
駅に降り立った時、やけに空気が濡れていると思ったら、アパートに向かっている途中で雨に降られてしまった。
真人は常に折りたたみ傘を鞄の奥に入れ、万が一の場合に備えている。だがずっと鞄の下にしまっていた為か、荷物の重みで骨組みが歪んでしまったらしい。いざ使おうと傘を開いてみたら、骨組みが歪み、柄の部分が半分しか伸びなかった。伸びないということは、傘も開いてくれない。
真人は仕方なく、容赦なくザアザアと降りしきる雨の中、高湿度で滲んだ汗を拭いながら、走らざるをえなかった。
亮治のアパートは、駅から離れた住宅街にあった。二階建てアパートの一階。クリーム色の壁面と、そこに貼られている『入居者募集』の看板から、建てられてからまだそんなに月日が経っていないことがわかる。
造りも真人の想像するアパートとは異なり、鉄骨造と見間違えてしまうほど新しく、木造感がなかった(実際はおそらく木造)。
単身者ばかりなのだろう。ゴミ置き場横の狭い駐輪場には、老若男女問わず統一性のない自転車が数台停められている。
雨の中、真人がインターフォンを押して待っていると、部屋の中から足音がドタドタと近づいてきた。ガチャ、とドアが開かれる。ドアの隙間から顔を出したのは、もちろん亮治だ。
びしょ濡れの真人を見るなり驚いたのか、亮治はポカンと口を開けて固まった。
「え、真人……? なんで――」
「本当にかまわないでほしいなら、母さんには『かまうな』って言わない方がいいよ」
亮治はばつが悪そうに、「あ、ああ……」と言いながら頭を掻いた。シャワーから上がったばかりなのだろうか。水分を含んだ髪から、ポタポタと水滴が落ちている。
真人を部屋に入れつつ、亮治はどしゃ降りの外を、誰かを探すようにきょろきょろと見回した。
「誰か来るの?」
「えっ、いや……断るよ」
「友達とか?」
「まあ……そんな感じ」
「もう向かってるんじゃないの。急に来たのはこっちだし、傘貸してくれればすぐに帰るけど」
亮治は「いいっていいって」と、どこか力なく笑うと、ドアを閉めた。
亮治の部屋は、思ったよりも散らかっていなかった。子どもの頃からなんでもできる亮治だが、整理整頓だけは苦手だったはずだ。
電話してくる、とスマホを持って洗面所へと向かった亮治には悪いが、真人は濡れたジャケットを脱ぎながら、部屋の中をぐるりと観察させてもらう。
エアコンのすぐ下の窓枠に取りつけられた突っ張り棒に、雑作にかけられたネクタイとシワになったスーツ。それらは目をつぶるとして、その他の服や下着、靴下などはちゃんと収納しているらしい。ベッドの下では、プラスチックでできた半透明の収納ボックスがいくつか横に並んでいた。
意外にもテレビ台のまわりは物を置いておらず、埃も溜まっていない。料理はあまりしないのか、パッと見てシンクも綺麗だ。
一度、真人は兄夫婦の住んでいたマンションに遊びに行ったことがある。カウンターキッチンには、真人がそれまで見たことのないオーガニックの調味料やキッチン用品が、ずらりと並んでいた。
どうしても離婚前と比べてしまい、真人はひそかに亮治に同情する。
座卓の上には、テレビのリモコンと飲みかけの缶ビールが置かれていた。ちょうど風呂上がりのリラックスタイムを邪魔してしまったようだ。
電話を終え、タオルを持ってきてくれた亮治に「綺麗にしてるじゃん」と言うと、亮治は「ま、まあな」と真人から視線を逸らして、力ない笑顔を浮かべた。頬がわずかにこけたように見え、タオルで頭を拭きながら真人は「ちょっと痩せた?」と尋ねる。
「あ、ああ。ここんとこ風邪ぎみで……」
母の耳に亮治の声が機嫌悪く聞こえたのも、風邪のせいだったというわけである。今も亮治に元気はなかったが、本当の体調不良だとわかり、真人もひとまず安心する。
亮治がエアコンで除湿をかけてくれたおかげで、不快な湿気が取り除かれていく。だがその分、服も髪も濡れているため、今度は少し冷えてきた。体を冷やしちゃまずいと、真人はワイシャツのボタンを外していく。
いくら血の繋がりがないとはいえ、兄弟は兄弟だ。初めて訪問する家ではあるが、どうせ兄の家である。実家でそうするように、真人はワイシャツと下着を脱いだ。上半身裸になり、「部屋着貸して」と言う。
ふと亮治から視線を感じる。顔を上げて「兄さん?」と尋ねると、向こうはハッとなって「あ、ああ、部屋着な」と所在なさげに視線を逸らした。
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