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真人⑥

***  カタツムリのもったりした粘液が肌に張りつくような梅雨も過ぎ、ようやく紫陽花の姿形を余裕のある目で見れるようになった。   勤務先である市役所の庁舎内の一階ロビーを、真人はエントランスに向かって歩いていた。案内所横にある電光掲示板のデジタル時計は、午後五時二十分を示している。  先月まで、通常業務に加え、住民からの電話対応をこなしていたために、真人は連日残業を余儀なくされていた。毎年のこととはいえ、もうそろそろ限界という時に、七月になってくれた。  七月になると、言いたい放題だった住民も通知書の通り、住民税を納めてくれることがほとんどだ。よって、ただの憂さ晴らしのようなクレームもピタリと止まる。  規定の終業時刻に帰れているこの一週間。本来なら、真人は天にも昇るような気持ちで毎年過ごしているのだが――。 「真人君?」  後ろから呼び止められ、真人は振り返った。顔よりも先に目がいったのは、艶のある茶色の革靴を履いた足元。一見地味だが、オーダーメイドらしいフィット感を見るに、おそらく値段の張るものなのだろう。こういった靴を履く人間を、真人は一人しか知らない。 「牧野先生」  顔を見ると、それは高校時代からの知り合いである牧野忠之(まきのただゆき)だった。真人にとって高校の先輩であり、そして真人の兄・亮治の親友だ。高校時代から頭が良く、勉強のできた亮治にさえ「あいつには絶対敵わない」と言わしめるほどだった。  牧野は現在、内科医として働いている。毎年、真人は繁忙期になると、牧野に胃腸薬を処方してもらっているのだ。よって真人にとっては、『先輩』や『兄の親友』というよりも、医師である牧野の顔の方がしっくりくる。  牧野は爽やかな白い歯を見せつつ、「薬の副作用は出なかった?」と人好きのする笑顔で訊いてきた。 「はい、おかげさまで今年も乗り切れました」  チラッと牧野の手元を見ながら言うと、牧野は「ああ、これ」と手にある窓口封筒を見せてくる。 「前に住んでいた所の転出証明書だよ。本当は今日中に転入届を出したかったんだけど……時間に間に合わなくてね」  牧野は実家のクリニックを継ぐため、今月の頭に、市内へと引っ越してきたのだ。  以前牧野が勤めていた病院へ処方箋をもらいに行った時に、真人は牧野から引っ越しの件を聞いていた。「役所で会えるかもしれませんね」と世間話のつもりで言ったが、まさか本当に会えるとは。  ここで「おまえ、俺の代わりに出しといてよ」と冗談で言うのが亮治だが、牧野は冗談でもそういうことは言わない。   高校時代、真人は牧野に対して、どこか俯瞰的な優等生という印象を抱いていた。きちんと着こなしている制服には、皺がほとんど見当たらなかったのも、印象的だった。  そのわりに亮治とは仲がよく、しかも自分から冗談は言わないが、冗談を振られた時の返しにセンスがあったため、やっぱり女子からはよくモテていたものだ。  亮治と違うのは、女子受けだけでなく教師受けも抜群によかったことである。  今でも、牧野のピンと伸びた背筋と柔らかい雰囲気は、感じのいい優等生の面影を残している。  互いに帰り際だったので、真人は牧野と駅へ向かうことにした。市役所から駅までは歩いて五分足らずで着く。  駅前の飲食店の並ぶ通りを歩いていた時、牧野が腕時計を確認して「少し飲んでいかないか?」と提案してきた。  真人はそこまで飲める方ではないし、飲み会もあまり好きではない。よって歓送迎会や忘年会や新年会以外、仕事終わりに飲みに行くことはほとんどない。  だが、世話になっている牧野の誘いを断る理由もなく、気分的にも少し酔いたかった。真人は「行きます」と二つ返事で、まだ西日に塗られた空の下、牧野についていくことにした。  牧野が入ったのは、カジュアルなイタリアンレストランだった。ワインだけでなく、アルコール度数の低そうなカクテルも豊富で、ワインが苦手な真人はドリンクメニューを見てホッとする。

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