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真人⑥

 案内された四人席のテーブルも椅子も、背が無駄に高くて不安定に感じるが、きっとそういうものなのだろうと思うことにした。  牧野はフードメニューを開きながら、 「亮治はこういうところより、安い居酒屋の方が好きなんだけどね」  と、笑う。真人が「はあ」とぬるい返事をすると、牧野はメニューから視線を逸らさずに、ぽつっと言った。 「飲みに誘っておいてアレなんだが、君はアルコールを控えた方がいいと思う。調子、まだ戻っていないんだろう?」 「え……っ?」 「真人君、この前の診察の時より痩せたんじゃないか」  さすが医師である。真人は思わず自分の頬を触り、こけ具合を確かめる。体重は測っていないので知らないが、確かにここ一ヶ月、真人には食欲がなかった。  原因は、はっきりしている。  真人は拳を固く握り、太ももに置いた。一ヶ月前の思い出したくない記憶が蘇る。  ――俺は……男じゃないと、駄目で……勃たないんだ……っ。  真人に襲いかかった後、股間を膨らませたまま嘆いていた兄の姿を……。  誰にも言うつもりはなかった。もちろん牧野にも。なかったことにして、やりすごすつもりだった。  だが、日が経てば経つほど、あの時の怒りと悲しみが真人を襲うのである。電話で「お兄ちゃんの様子、どうだった?」と心配そうに尋ねてくる母の声を聞いた時も、苦しくて苦しくて……口周りの皮膚に痕が残るくらい強く手で覆わないと、嗚咽《おえつ》を隠すこともできなかった。  自分のせいじゃないのに感じてしまう罪悪感に、腹が立った。もう――限界だった。  真人はすべて話すつもりで、「あの」と牧野を呼んだ。  牧野が「ん?」とメニューから顔を上げる。 「じ、実は――」 「あ、ちょっと待って」  そう言って真人の言葉を一旦遮ると、牧野は出入口に向かって「こっちこっち」というように手招きした。  振り返って見ると、こちらに向かってくる男がいる。亮治だった。 「悪い、遅くなっ――」  真人に気づいた亮治の表情が強張った。だが瞬時にいつもの笑顔を取り戻し、「おう、おまえもいたのか」と言って真人の隣に座る。 「ところで真人君、今なにか言いかけた?」  牧野が改めて訊いてくる。  亮治が来たからには、話すことはできない。真人は「い、いえ……」とうつむくことしかできなかった。 「ここってハイボールあんの?」  亮治の質問に牧野が「あるんじゃないか?」と答え、店員を呼ぶ。  牧野は赤ワイン、亮治はハイボール、真人はオレンジジュースをそれぞれ頼み、食べ物も牧野が慣れた様子で何品か注文した。  飲み物や食べ物がテーブルに並んだ後は、主に亮治と牧野が互いの仕事の話で盛り上がっていた。真人は帰るタイミングを逃し、気まずさから牧野に話を振られても、受け答えもまともにできない。  段々と、以前とまったく変わらない亮治の態度に、真人は腹が立ってきた。血が繋がっていないとはいえ、この男は弟である自分をレイプしようとしたのだ。いや、あれはもはやレイプだった。  牧野のスマホに電話がかかってきたのは、店内に仕事終わりのサラリーマンが目立ってきた頃である。前の病院で牧野が診ていた患者を引き継いだ医師からの、治療法についての相談らしい。牧野は「悪いね」と言い、スマホだけ持って外へと出て行った。  亮治と二人残され、さっきまで賑やかだったテーブルに重たい空気が漂う。  亮治と会うのは、あの夜以来なのだ。気まずさを感じないでいられる方が、どうかしている。  牧野と楽しそうに話していた亮治も、二人きりになってからは黙ってひたすら氷だけになったジョッキに口をつけていた。さすがの亮治も居心地が悪そうだ。  加害者が、被害者である自分と同じ気持ちであっていいはずがない。静かな怒りが真人を支配していく。  真人は勢い余って、 「情けないと思わないの」  とピシャリと言った。  ピクッと隣に座る亮治の体が反応する。続けて真人が「恥ずかしくないの」と言うと、亮治はダンッとジョッキをテーブルに置いて、「やめてくれ……」と頭を下げた。  はあ? と、真人は怒りを乗せて、まるで被害者のようにうなだれる亮治を見つめた。 「僕が同じことを言ってもやめなかったくせに、なに勝手なこと言ってるんだよ」 「ごめん真人。俺、あの日どうかしてて……」 「僕はそんなことが聞きたいんじゃないっ」  亮治は頭を下げ、後頭部を乱暴にガシガシと掻く。責め立ててくる真人に苛立っているのか、自分自身に怒りを感じているのか。  苛立ちの種類はわからないが、亮治の表情には何かくすぶったものが見え隠れしている。 「俺には謝ることしか、できねえだろ……。兄貴がゲイでもないのに男じゃないと勃たないなんて……おまえだってそんなことを何回も聞きたいか? しかも俺は、おまえまで……っ」 「僕はちゃんと説明してほしいだけだっ。兄さんの性癖と、『あの日どうかしてた』だけじゃ納得いかない。怒るに怒れないし、これからどうやって兄さんと付き合っていけばいいかわからないんだよっ!」  肩を掴んで揺すると、亮治はようやくこちらを見た。あの夜以来、初めて目が合った瞬間だ。そこで気づいた。亮治の顔はやつれており、一ヶ月前よりもさらに痩せていたのだ。

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